書画屋「90年」

書画屋「90年」のこだわり

代表取締役社長・田中千秋

私たち田中家は、社歴をご覧いただければおわかりのように、戦前の昭和12年に祖父が京都で書肆店を始めたところに家業のルーツがあります。祖父の田中新はもともとは大阪から京都に来た人物ですが、詳しいことはわかっていません。最初は印刷会社に勤め、のちに古書店を創業したようです。彼は書画の数奇者として知られ、蒐集仲間が多くいたようで、仲間やお世話になった先生といっしょにフレームに収まった写真を見た記憶があります。

当社のキャッチフレーズには「70年」「80年」「90年」と表記の揺れがありますが、これはルーツをどこに設定するか、またはキャッチフレーズを掲げた時期によって異なるためです。父が書画屋の息子として生まれた時点から数えれば、90年くらいということになります。

祖父の姿は、京都の大宮松原にある一族の家の二階で、酒を飲み、タバコを吹かしているところが印象に残っています。当時の家屋の階段というよりも、ハシゴに近い急な段を上がった左側が祖父の書斎で、その周囲には書画保存のための防虫香の線香のような香りが充満していました。

 

若き日の田中自知郎
前会長・故・田中自知郎の若き日の姿

父・田中自知郎。写真の年代・場所は不詳。おそらく20代。家業に参加した頃だろうか。

子供の頃、いくたびになにかオヤツかなにかをもらっていたようですし、たまにはお茶屋さんに連れて行ってもらって舞妓さんにも可愛がってもらったようですが、もう本当におぼろな記憶です。

祖父は横山大観の晩年と同様、あまりツマミを食べず酒だけで生きていた、少し不思議な人物でした。

さて、そこで育った父は朝から晩までその抹香臭い書画に取り囲まれていたのですが、物心ついた頃には世の中は戦争に突入しており、けして豊かな生活ではなかったようです。書画骨董掛軸の商いを祖父や兄貴がしていたからといって、たくさんの口を満足に食べらさせられるわけでもなく、お産婆さんだった母親も早く亡くして、いったいどうやって戦中を兄弟7人が生き延びたのかいまや知る由もないのですが、いつもひもじい思いをしていたようで、父はあまり思い出したくない様子でした。

戦後、世の中が落ち着きを取り戻すと、田中家の商売は急速に発展していきます。7人兄弟の長男、次男、三男、そして四男である父らは、幼い頃から祖父の商売を手伝い、リヤカーに商品を積んで京都中を回り、やがて日本中の書画愛好家や大学、資料室を訪ね歩くようになりました。古書店として急成長を遂げ、次第に全国に名前を広めるようになりました。

 

書肆思文閣創業時の社屋兼家屋があった大宮松原付近

普通の古書店は資金の分だけ書画を仕入れ、順番にお客さんに紹介していたのでしょうが、田中家の場合は金がなくても商品を仕入れ、売ってから代金を届けに行くという大胆な商法を行っていたようです。当時、日本人は活字と知識に飢えていたため、こうした無茶なやり方でも商売が成り立ち、やがて古書界ではトップクラスの規模へと成長しました。

父・田中自知郎は京都大学農業経済学部に進学し、一度は製糖会社に就職しましたが、ほどなくして家業に呼び戻されました。大学で資本主義の仕組みを学んだ父は、兄に対し、株式会社化して資本を強化し、近代経営に転じることを提案しました。兄たちはその提案を受け入れ、田中家の書画屋は「株式会社」として新たなスタートを切りました。

元々は江戸時代の背表紙のない書写本や木版本、筆跡、手紙、絵画などを扱っていた古書店は、東京、名古屋、九州などへの進出に伴い、日本画、油彩画、道具類など、美術マーケットにあるあらゆるものに興味を示すようになりました。

書画屋、というのは祖父に典型的に見られるように、そもそも本が好き、知識が楽しい、という「学ぶ」意欲と「収集癖」が商売に転じたようなものです。そのため、世の中にある「品物」「美術」「貴重なもの」を扱っていきたい、好奇心が非常に強かったのだと思います。

 

田中自知郎
前会長・田中自知郎。鑑定中。

秋華洞会長時代の田中自知郎。2010年頃、秋華洞にて

昭和40年生まれの私は、当初、家業に関わる気はなく、20歳の頃は、映画やコンピューターに興味を持っていましたが、30半ば過ぎて父とこの仕事をはじめると、知識欲と商売が渾然一体となったこの仕事に魅了されるようになります。この仕事は、莫迦じゃあとてもできないが、あまりお行儀よくてもできません。なぜなら、ほぼ毎日が売り買いの連続で、丁半博打のような決断力も必要であり、人の何十倍も勉強しなければ追いつけません。しかし、学者然としたインテリ風の人格では到達できない境地も求められます。今となっては「血は争えない」ということでしょう。私は東大で理系学問を学びつつ、映画監督を夢見ていましたが、結局はこの商売に導かれる運命だったのかもしれません。

「書画」と言っても非常に幅広く、書、絵画、手紙、詩歌、資料などを扱いますが、何千人といる作家や有名人のものについて、真贋や価格を瞬時に判断しなければならないことが多いです。実際には数週間にわたる調査が必要なこともありますが、その場で「買うのか、買わないのか」と即決しなければならないことも少なくありません。この商売に携わっている方ならご存知かと思いますが、一瞬で何百万円、時には何千万円、億単位の取引が行われることもあり、本当に恐ろしい世界です。

今や私たちの取扱範囲は、社員の研鑽によって非常に広がりました。書肆という言葉には「出版」の意味も含まれていますが、実際に当社では本作りから現代アート作家のプロデュースまで、価値を世に提供する幅広い活動を行っています。

そんなわけで、扱い幅は、日本画・洋画・海外美術、現代美術、陶芸、茶道具、刀剣武具、貴金属と増えてきました。英語で言えば「collectibles」これは「集められるもの」ということですね。広くいえば着物、切手、トレーディングカード、玩具など、集められるものはたくさんありますが、基本的には「価値のあるもの」を集めるという意味ですが、広範囲に丁寧に査定額を出せるよう、鑑定眼を養ってきました。

1937年から始まり、90年近くにわたって続いてきたこの仕事の原点である「書画屋」の精神を忘れず、美術業界でナンバーワンと言われた誇りを胸に、これからも研鑽を続けてまいります。そして、この情熱と誇りをスタッフや子供たちにも伝えていきたいと考えています。