岡本東子展、金曜日から
最近は動画ばかり撮っているためか、ブログが滞りがちになる。
岡本東子の個展を今週末、11日から行う。
彼女はいわゆる「美人画」ジャンルを担う最初期メンバーで、池永康晟についで私達にとっては二番目の画家。エヴァンゲリオン風に言うと「セカンドチルドレン」。専属画家という意味で言えば「ファーストチルドレン」である。綾波レイなのである。
「美人画」というジャンルを支える旗手としての自覚が彼女にあったかといえば必ずしもそうではない。「美人画」家というキーワードを自ら名乗り、その旗のもとに若いアーティストを集め、人物画を描くのを忘れたかのような日本画の世界、すなわち牡丹だの猿だの、唐招提寺だの汽車だの永遠の世界やら花鳥風月やら仏道とか日本だとか気韻生動だとか、「伝統」だとか、ともかくも何かしら高尚ないし高尚に見えるものを描くことにふけった戦後日本画のならわしの中で、いつの間にか捨ててしまった猥雑で風俗的な人物画、具体的に言えば鏑木清方・橋口五葉・竹久夢二・伊東深水らが切り開き展開した風俗画というか身近で一番美しいもの、すなわち、
日本女性
を描く素朴な動機を忘れた日本に息苦しさを感じたのだろう池永と私が別に気負うでもなく素朴にやりたかった、耳の裏側とかうなじとか二の腕とか唇とか髪の毛とか足首とかそういう普通のものを取り戻したいという、もしかしたら一部の女性にもあるかもしれない一般には男の欲望を実現させたい、あるいは実現させたいというより、別にあっても許されるではないか、と考えたのである。
岡本の絵は池永が見つけて、唸った。
何者か。
甲斐庄楠音の耽美的な世界を思わせた。
この話は何十回も書いたので、少し省略して、その岡本の発見と協業から10年を経て今のことを話す。
岡本はよい画家ではあったものの、若干の迷いを感じさせた。絵かきをやりながらも、多少の事務職も兼務していたのだ。これはいかん。画家たるもの、副業は許さない、もし絵が売れなければ餓死にせよ、人生の全リソースを画業に捧げろ、とある意味理不尽な説得を池永と私はこの10年続けた。そして昨年、完全に彼女は画業に集中することを決意した。
そしてこの年末の個展につながるのである。実は長らく個展はなく、もう何年前かわからないほどである。もう満を持しての機会なのである。なのに。
コロナが来た。
なんということか。
だが、独立の最初が最悪の状況で始まるのは実はいいことなのだ。私達秋華洞画廊も、バブル崩壊の最悪にリーマン・ショックが加わる絶望が美術業界を包む中で船出した。どんな状況でも希望しか見ないのが私の流儀である。あんまり恵まれていると希望どころか目標とモチベーションを見失う。
岡本の絵は数々の迷いを振り払うように、燃える瞳をその女性像に宿した。今回の作品群はみな力作である。
冒頭むだ話のように述べたように、岡本の絵は男の欲望視線の不順な動機に基づくものではない。むしろ女の内発的な意思を表すことに彼女の興味の本体はある。なので美人画と括られるのに別段抵抗は示さないまでも、実はそれほどジャンルへのこだわりはない。むしろ女達の自画像としての人物画としての岡本作品に真骨頂がある。
だが、見る人達はそんな岡本作品に何故かむしろ色気を見る。
岡本は長く湾内での曳航を経て、今回長い芸術家としての大洋に出る船出の展示となる。ぜひ、応援していただきたい。
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