美人画ルネサンス、開催して思うこと
2020/05/02
美人画ルネサンス展は、例の騒動で非常に揺さぶられましたが、しかし、同時に、池永と私共秋華洞が成し遂げていきたい絵画世界の方向の一里塚を築くことはできたと思います。
今回、実は会期が4月1日から6日となっていたのを、例の影響で次の企画が取りやめになり、会期が13日の延びたものの、感染の状況なども鑑み、再び6日が最後となった経緯がありました。毎日が苦渋の判断でしたが、ただ、内容は素晴らしかったので、ここで改めて書き留めておきたいと思います。
美人画ルネサンス秋華洞公式ページ
https://www.syukado.jp/exhibition/bijinga_renaissance/
池永康晟さんは、日本画が人物画に対して興味を失ったかのような現状に、「違和感」を感じて、もう15年ほどになるでしょうか、「人が人を描く」というごく当たり前の営みを日本画に取り戻す一種の運動をひとりではじめました。
私ども秋華洞、あるいは私田中は、絵画に人間のドラマが欲しい、明治・大正の日本画がもっていた人物画への驚き、興味、仕掛けをもっと見てみたい、と願っておりました。
池永さんは、「人物画」あるいは「美人画」の流れをもう一度作るべく、展覧会の企画を行ったり、「美人画尽くし」という画集を編み、たくさんの人物画家を世に紹介しました。私どもとのコラボも、いくつかありました。そうこうしているうちに、いつの間にか、日本画技法で、人物画を描く作家がどんどん増えていきました。これは池永の影響なのか、あるいは同時進行の偶然なのかは、判然としません。
ですが、今回のように、一人ひとりのいわゆる「美人画家」をきちんと紹介し、なおかつ歴史的な美人画を並べて展覧するという企画は全くの初めてのことでした。
今回は画家たちの作品のみならず、その背景を紹介する、彼ら愛用の小物、書籍、道具、活動などを併せて展示し、さらに北は北海道から南は山口県まで広がる各画家のアトリエに訪れて、作家のインタビューを動画で採録するとともに暮らしぶりも紹介するという大掛かりな企画となりました。
さて、蓋を開けてみての感想。
良い展示になった!
なんといっても、画集という一種の「バーチャル」な媒体でなく、本当にたくさんの画家の作品が揃っているこの機会、しかも阪急さんという超メジャーな祝祭空間で行われることの大きさ。そして、室礼(しつらい)もきちんとしていました。壁の高さ、強度、色彩、ビデオや様々な展示物のバランスは、非常に品が良く、丁寧で、展示それ自体としてのクオリティが高い。阪急さんの並ならぬ取り組みを感じました。この百貨店さんの企画力・行動力・柔軟性はすごいです。私達、画廊が表立って百貨店さんとコラボをするという形も、他の百貨店さんだとあまりない形式で、このやり方にもおそらく「阪急イズム」があったのだと思います。
展示について、少し述べます。
まず、池永さんのコーナーは、もっともメインに据えてありました。彼の唱える「市上芸術」、すなわち美人画がマグカップ、ノートのあしらい、化粧品や菓子類のパッケージなどに行き渡るイメージ。
今は官庁のポスター、例えば「自衛官募集」など、そして地方の行事の宣伝などの、キャッチイメージに、「アニメ絵」「萌え絵」が席巻しています。それを「日本画」「美人画」「アート」が奪還しようとする試みです。
実はすでに池永グッズはロシアやスペインなどのヨーロッパではいち早く採用されていますが、日本での採用例はまだ多くはなく(実はウイスキーのラベル、花房観音さんの小説のカバーなど、採用はゼロではありません)、もっともっと、という池永さんの願いを展示したものでした。
それが会場の正面に据えられているのは、まさに池永さんの悲願を可視化したものでありました。
彼の描いた肝いりのヘアヌードは、敢えてちょっとのぞき穴のある小部屋に入れてありました。これは東京で開かれたある春画展でのギミックを参考にして思いついたものですが、展示の楽しさを増しました。
今回、大きく取り上げることができて嬉しかったのは蒼野甘夏さんの作品群です。彼女は今年正月の日経の文化一面でも大きく文と絵が取り上げられ、おそらく日本の経済人すべてが目にした画像となりました。彼女の着想の大きさ、絵の伸びやかさ、美しさは独学にもかかわらず(実はだからこそ)、超一級ですが、その割にまだまだ十分に知られていない、という問題を私は感じております。展覧会の正面に彼女の代表作を飾り、中には入れば展覧会正面右に彼女の大きな作品群が展開する展示を作れたのは、本当によかった。
服部しほりのことについても触れて置かなければいけないでしょう。服部は、私どもで扱っておりますが、「美人画」とは別枠でした。というのも、彼女の絵は人物が中心であるものの、「女性」を正面から描くことを忌避してきたからです。ですが、昨年、銀座シックスさんでの展示を機会に、「女性」を描くことに、挑戦するようになりました。「女性性」というものは、彼女にとっては描くのが困難なことで、それは彼女のパーソナリティと画業の方向性において大きな要素となっていたのですが、それは却ってこの「美人画展」の予定調和を壊すことになっていたと思います。
「美人画」といえば「美しい」ということが条件になります。ですが、「美人」がただただステレオタイプで語られてしまって、果たして現代の美術といえるのか、という問題があります。近代の美術においでは、岸田劉生、中村正義や中川一政の取り組みにもあったように、そもそも「美」とは何なのか、という問いがあります。日本近代では、通俗的に「きれい」というものと、美術の文脈での「美」がすでに違うのではないか、ということがすでに百年ほど昔から問われておりました。西欧近代においては、さらに踏み込んで「アート」と「美」の概念は、イコールではなくなっています。例えばフランシス・ベーコンの絵を見て、素直に美しい、とつぶやく日本人が、何人いるでしょう。20世紀、世界の文脈では「美」と「アート」は離婚別居と同棲結婚を繰り返す関係ですが、日本とはかなり別の文脈。いい悪いではないですが、いえば、ガラパゴス状態。ただ、いずれにせよ「美人」は「美人」である、というテーマだけで立ち行くものではありません。服部の取り組みが妥当か、あるいは人の心を撃ったのか、ということはまた皆さんの評価を待たなければいけませんが、ただ単に一方向に行くという予定調和は避けられたと思います。
反対に、「美」に対する「ためらい」がないのが、宮崎優と大竹彩奈の画風です。ふたりとも、「漫画」がその画業の基礎となっているところが共通しています。
宮崎は、大正時代のプログラムピクチャーである渡辺木版の「新版画」、橋口五葉や伊東深水の系譜に近いでしょう。和服に傘、桜吹雪や紅葉などの小道具を駆使して、少女や女性の「決めポーズ」を描く。女性のリアリティよりも、絵としての楽しさ、着地点を目指したものですが、「美人画」というものを明快に代表する要素として、彼女の世界の完成度は無視してはならないもので、今回も1,2の人気を誇ったと思います。
大竹彩奈は、ただ、ただ、美しい。今回彼女のインタビュー動画を編集していても思ったのですが、心底陶酔してしまう美人を描かせたら、この21世紀に、彼女の右に出る作家を世界で探すことは難しいでしょう。もう心憎いほどです。和服美人。というこちらも「美人画」のステレオタイプを踏襲しているように見えて、現代女性の美しさをこれでもかと展開する。体の線の処理、単純化したなかで美しく見せる色のテクニック。本の装丁で鍛えた物語を描く基礎体力。昨年の資生堂の化粧品デザインに採り入れられたのもむべなるかな。心の底から惚れ込んでしまいます。画家本人も美しいのですが、なんだか性格は淡々としてあっけらかんとしているのもさらに心憎い。美の生産者として自分の仕事に客観的な様子なのです。
岡本東子は、女性が描く女性画としての立場を常に絵が主張しています。男の視線のなかで媚びるのでなく、女が生きていく姿を描く女絵。にもかかわらずすべての作品から立ち上る色気は、彼女は意識していないと言い張りますが、逆に言えば異性性を抜きにしても立ち上る色気ということから人間の本質に迫りたいという画家の情熱が見て取れます。
顧洛水のセクシュアルな世界観、田口由花の荒削りだが日本絵画に対するリスペクトも、言及しておくべきでしょう。
本当は今回もっとも強調したいのは、メインビジュアルでも使った、上村松園、鏑木清方、伊東深水、竹久夢二の作品群の展示の素晴らしさです。こうして若手の作品と並べると際立つのが、やはり彼らの作品の一つ一つが並ならぬ女性たちの暮らしや生き様への深い知識と洞察、そして絵画史を知り尽くした上での画業の鋭さ、豊かさです。残念ながら、「美人画」という土俵に乗せたとき、このいわゆる「巨匠」たちの画技、品格を、現代画家は越えることは、かなわなかったというべきでしょう。だからなおさら、今の画家は、技術においても物語性においても、現代でなければ描けない、あるいはその画家でなければ絶対に描けない境地を目指さなくてはいけないと思います。
syukadoツイッター(会期中は「美人画ルネサンス」の記事が多いでしょう)
今回「美人画」という枠組みを聞いて忌避する作家さんもいたと思います。ですが実は巨匠と呼ばれる鏑木清方も、大阪画壇の巨匠、北野恒富も、「美人画」と片付けられることをよしとしていなかったのです。たんに一過性の慰みものとして単純化して伝えられやすい世間の一面的な見方に、彼らでさえ、嫌気がさしていたのですから、現代ではなおさらでしょう。
ですが、「美人画」という一応の形式を吹き飛ばす「絵画」あるいは「美術」の情熱を持って、この枠組のなかで、どう暴れてみせるか。すべての形式は、ある意味高座の「大喜利」のようなものです。形式をある程度踏襲しながら、誰も見たことのない境地を見せること。それは「日本画」「現代アート」でも同じです。どこまでもどこまでも新しく本質と表層の断面を切り取りながら、美術館や画廊の枠に一応は行儀よく座ったふりをすること。漫画や、映画や、演劇の人たちと何ら変わりはしないのです。形式を守ることと、壊すことは、同じ意味です。
初日に敢行したインスタライブによる生中継
今回動画にしたインタビューでも、画家の思う「美術」「美人画」への考え方が、全く違うことに気が付かれたと思います。この中で、「美人画」「日本画」の歴史性について、意識が明快なのは池永画伯のみでしたが、しかし、誰もが「美人画」の先人の偉大さを意識しながら、そこに自分がどう近づくか、あるいは遠ざかるかを意識しています。すなわち「伝統」への敬意と距離感を、どうコントロールするかは、作家において、まちまちなのです。ただ、「日本画」という形式は、いずれにしても先人への敬意というものと、切り離すことはできないでしょう。日本画とはなにか、という定義が画家の間では真剣に行われていますが、実は定義なんて、どうだっていい。要は、私達日本人しかできないなにかがあるのであれば、そこをやってみたい、という岡倉天心以来の、ある意味でごく単純な動機です。横山大観・村上華岳から加山又造までつながる、どうころんだって無視できない「近代」というものを持っているのは、この国に生まれた僥倖には違いないのです。
美人画ルネサンスバーチャルツアー 初日と二日目に収録(YOUTUBE)
さて、「美人画」の枠を作ることと壊すことが同じであるように、「アート」あるいは「美術」の枠を壊すことと、作ることも同じです。作ることと、壊すことは、同じ意味なのです。そのことに早く気がついて、これからは自称「現代アーティスト」「彫刻家」「陶芸家」「写実画家」「写真家」にも、芸術が「人」を描くフィールドに来て、戦ってみられることを、私は望んでいます。今回の美人画ルネサンスが、日本のアーティスト、芸術家、画家が「美」をめぐる楽しき戦い、あるいは祝祭に1ページ参加していただく契機になればと願っています。
インスタグラムアカウント(shukado_contemporary_tokyo)
https://www.instagram.com/p/B-g4wTkjAzr/?utm_source=ig_web_copy_link
なお、現場の様子は写真や動画にもまとめております。文中に一部貼り付けておきますので、ツイッター、インスタ、YOUTUBE、などでもご確認下さい。ありがとうございました。