商品としての村山槐多
2019/06/28
こんにちは、美術で日本を元気にする、田中千秋です。
村山槐多には、少し、縁があります。
幾度か、相談を受けました。すべての商談がうまくいったわけではありません。むしろ、難しい。
カイタの絵といえば、太い色線に荒削りの描写が鮮烈で心地よく、美術史の本を読んでいると強烈に脳裏に残ります。
だが、売り物は少ないです。当然のこと。かれは若干22歳で亡くなっています。この年令で亡くなって美術史に名前が残るということは奇跡。この「奇跡」は日本美術史上に3人にいます。すなわち、村山槐多、青木繁、関根正二です。
世間ではなにかモノが出てくると何年ぶりに新発見、などと騒ぐが、実は、貴重なれども水面下で動くことは有ります。当然、美術商は必要以上に騒ぎません。騒ぐのは別の人の仕事です。
希少な作品が出てきたとしても、画家のイメージ通りのものは、多くありません。それは「夭折」の定義を少々広げて、菱田春草、速水御舟や、松本竣介など30代、40代で亡くなった画家たちを含めてもそうです。だから、カイタに関しても、あの、村山槐多らしい、鮮烈な色で埋め尽くされた絵画がそう、あるかといえば、なかなかありません。むしろ資料的なものが多い。
コレクターズアイテムではありますが、実はコレクター自体も希少です。友人の一人にそれにあたる人がいますが、資料は資料としての値段をつけないといけなませんから、なかなか簡単には折り合いません。
さて、品物が少ないだけに、鑑定は難しいです。いいものか悪いものか、簡単に結論を得ることは難しい。値段だってそうです。「鑑定団」的に、XX千万です!なんて尤もらしくいうのは簡単ですが、果たしてその値段で「売ってくれる人」「買ってくれる人」がいないとなんの取引も成り立たちません。よく美術品の値段は「あってないようなもの」という人が有るが、それは嘘です。売る人も、買う人も、価格は真剣。美術の値段がないのなら、ポッキーの値段も、ベンツの値段も、ない。「ない」というのは、その人の脳内マップに美術の「価格マップ」がないだけです。
なぜか値段の話しになってしまいました。またあらためて。
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