絵について。
昨日は一晩、気持ちのいい場所で美術の話をすることができた。
絵とは何か、何のためにあるのか、何であるべきか、と言う事を多分話したんだと思う。ある絵描きさん、画廊さんとの会話で充実していて心に残った。絵描きは僕のような理屈屋が使いがちな抽象的な言葉は使わない。大工さんが大工の仕事、魚獲りの人が魚獲りの話をするように絵の話をする。世間との軋轢の話を面倒臭さがりながら、それでも語ろうとする。言葉では伝わんない事を言葉で伝えようとする、と言うのは実は専門業ならある意味皆共通だ。でも真剣な言葉はその伝えたい事の周りをめぐって1つの真実を語ろうとする。そのすがすがしさが印象的で、彼のこの上なく素晴らしい作品とともに、こう言う出会いをもたらしてくれた人に感謝し、人生というものに手触りを感じる。
食べるためなら、どんな事だってする。彼は言った。家族がいるから。何でもする。いくつか職業をあげた。でもできれば、それでも絵描きでいたい。と言った。多分彼はこういうことが言いたいのだと思う。画家でいることは、特別な事ではない。大工とか八百屋とか商社勤めと同じようなひとつの職業に過ぎぬ。たまたまなったんだ、自分は普通の人間だ。だから普通に人と会話し、普通に考える。気負いのない、虚栄のない、まっすぐな人柄を感じた。でもできれば、ずっと絵を描いていたい。もちろんそれを職業にしていたい。
ぼくも思う。食べるためならどんなことでもする。
ぼくにも家族がいる。だから何でもする。でも画商でいたい、、と言うのは少し言葉が違うかもしれない。画商は職業に過ぎない。でも感動のそばにいたいと思う。そういう生き方でいたい。
いわゆる欲望を満たすにはカネ、オンナ、睡眠、権力、食欲、名誉、まあ、いろいろあろう。僕はそのすべてに興味津々な俗物だ。
けれども感動、すなわち何か心の奥の大事なことが手渡しできた瞬間、のようなものに立ち会わない人生などなんの意味があろうか、と思う。画商であり続けると言うのは僕にとってはそう言う意味だ。
もう僕たちは若者ではない。だから芸術論は青臭い理想論ではなく、今日明日の仕事の中身を検証する実際的な会話でもある。だがそういう話ができる瞬間はそう多いわけではない。だから大事な時間をくれた心に、僕は感謝を惜しまない。
そういや、何にも写真がないな。その時話題にのぼった土方さんのいる平塚市美術館で開かれた展覧会のイメージを載せておこう。今日は足利市美術館でやっている。
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