中原亜梨沙の画集、好評発売中のこと
弊社で扱っている中原亜梨沙の個人画集が出版された。
実は、若手画家の個の画集が出版社から出るということは日本においてなかなかないことだ。
東山魁夷、平山郁夫などの大御所の画集が書店に積まれることはあっても、30代、40代のホープの画集の出版を買って出る出版社は今までほとんどいなかった。
例外的に出たのは諏訪敦さん、松井冬子さんなど、美術館での展覧会を機に出版された場合だ。
弊社扱いのふたりの画家、池永と中原は、百貨店での展示でのタイミングで、出版という形で作品を世に問うことができた幸運な例である。
今回、中原の画集は都内の多くの大手書店で、パネル展などのキャンペーンをはっていただいており、中原本人もサイン本を提供するなどの販促活動に積極的に取り組んでおり、ツイッターで日々楽しそうな様子が伝わってくる。
彼女の絵に人気があるのは、さまざまな理由がある。
ひとつは色だ。彼女の、まるでゼリービーンズをひっくり返したような色使いは、ありそうでいて、実は肉筆絵画にはなかった色使いだ。
そして、リアリティのなさ。
彼女は、モデルを使わない。彼女の理想とする「何か」を「人」の絵を通して、表現しようとしている。そして、その緻密な絵肌には、タッチがまるで残らない。
いわゆる抽象絵画は、実はもっとも具体的だ。なぜなら、そこには「タッチ」がある。熊谷守一の油彩には、モリカズの「タッチ」がある。李禹煥の「ライン」にも、「タッチ」がある。山口長男の褐色の塗りにも「タッチ」はある。つまり抽象絵画はモノとしては、作者と読者が「タッチ」を介してダイレクトにつながる。その意味では中川一政も梅原も林武もタッチの画家であることは言うに及ばない。
彼女は「タッチ」を消すことで、作者と読者とのつながりは、消してしまう。そこに独立した、抽象的な、閉じた世界を作ろうとする。
読み手は、あの快活で奔放な中原亜梨沙という女性の存在を超えて、抽象的な美しさを備えた人工的な何かに意味を見出すのだ。
あの絵は、印刷にのりやすいが、一方で、印刷だけではわからない、緻密さを持つ。その意味ではいわゆる「写実」派に引けを取らない。