銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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舛添批判狂想曲

   

舛添さんの買った美術品について論評せよ、という電話とメールがほぼ毎日、マスコミから来る。

この一週間、ほぼ毎日である。

彼のヤフオクで買った美術品がいかなるものか、買った価格は適正か、という趣旨のようだが、今のところ、断っている。

彼らの質問がどのような趣旨か、わからないが、ヤフオクの値段が安いか高いかという質問であるとすれば、無意味な質問だ。

以前にもこのブログで述べた事があるように思うが、「価格」は売り手と買手に成立したときが「生きた」値段であって、「本来の」値段はこうだ、という議論は一見意味を持ちそうだが意味を持たない。

であるので、彼がヤフオクである絵を一万で買ったというのならその時の値段がリアルな値段である。その他の場面では幾らであるべきか、という事を公の言葉にすることが意味があるとは思わない。

ところで、さきほど、TBSの報道バラエティの動画を見ていたら、過去の評論家時代の舛添氏がその当時の石原都知事を70点と評したり、政治資金はクリーンに使うべきだという趣旨の発言をしている場面がほじくり返されていた。なるほど見世物としては面白い。

舛添の「変節」とテレビは報じる。だが、見ていて自分自身が恥ずかしくなり、また、見ているひとりひとりにブーメランのように跳ね返ってくる映像だと思った。

なぜなら、今現在、舛添の事を嗤っている我々じしんが、ひとたび立場が変わり守勢に立たされたらあのようになる可能性がある、ということだ。もうこれはイジメに近い。イジメだから、舛添は辞めない、と気を張っているのだ。

昔、舛添は政治家は無駄使い、贅沢をすべきでない、と述べていたが、ひとたび知事の立場を得ると、いそいそとファーストクラスやらスイートルームを使用し始めた。

ああいう程度の「変節」は、実は大抵の「凡人」が陥る愚かさだ。

ここに二つの言葉がある。

それは「ノブリス・オブリージュ」と「PERKS」だ。

前者は高貴な立場のものがなすべき義務、という意味で有り、後者は立場の『特権』という意味だ。

ノブリス・オブリージュは多くの場合、中世ヨーロッパの貴族階級が、普段は贅沢な暮らしをしていても、いざ戦争となれば軍人となり前線に行く責務がある、という意味に用いられるが、多分現在的な意味で言えば、教養と権力を持つ人間が公になすべき責務のことを指すだろう。

PERKS、と言う言葉はこの議論をしていて知人に教えてもらった。公用車を家族のためにも使ってしまう、などは典型的なPERKSである。

自治体と首長という立場にこの特権をどこまで許すか、というのは議論もあろうが、私企業であれば、ほぼ当たり前にある。

橋下のように「PERKS」の恩恵に浴しないことをテーゼとするような「非凡な」政治家もいるが、大抵はPERKSを喜んで享受する。

このPERKSには一種の「相場感」がある。そこからルーズに外れていくと、今の都知事のように四面楚歌になる危険をはらむ。

だが、聞きたいが、彼の程度のルーズさを、いささかも持っていないような聖人君子の精神の持ち主がどれだけいるだろうか。

娼婦に石を投げつける群衆に、「今まで一度も罪を犯したことのない人がいたらどうぞ投げなさい」といったキリストのあれと状況は似ている。

舛添氏が「ノブリス・オブリージュ」の世界観を持っている、とは私にも思えない。文春の論評を見る限り、すべての今までの彼の発言は「より上に」行くための手段であって、信念ではなかったのであろう、と思われる。

だがしかし、私自身がどうであるのか。あなたはどうであるのか。

たいして当てにならぬ。たいていの人間はルーズで、場当たり的で、立場で意見を変えて、自分に甘く、他人に厳しいものではないのか。

今、多くのマスコミは彼を批判するのにためらいがないが、私に言わせれば、最大の偽善はマスコミである。自分自身の弱さもずるさも、今享受しているマスコミの特権を、いささかでも反省したことなど有るのか。

そして、舛添が辞めた後の都政運営について、いささかでもポジティブプランがあるのか。

なりふり構わず全党全評論家全マスコミで批判する今の情勢は第二次世界大戦につながったかつてのポピュリズムとどこが違うのであろう。

「納得する説明がない」とよく報じられているが、納得など出来るはずがない。なぜなら納得したくないからだ。「金を使い込みました。自分の喜びのためで、どうもすみませんでした。」「なぜそんなことをやったのだ。」「いや何故かそのやりたくなったのです」「その何故を聞いているのだ」「だって楽しいのだもの」「楽しむなど許せぬ、説明せよ」「いえでは楽しいばかりでなくその少しは理由もありまして」「なんだ」「いえ私にとっては役に立つモノでして、役に立つと言うことは都民の皆さんにも喜んでもらえるかと」「納得できぬ」「すみません」以下同文。リフレイン。

「辞めます」

のヒトコトを聞くまでこの魔女裁判はやまないであろう。しかし魔女裁判に荷担するもの、それは昨日の舛添氏自身であったのだ。明日じぶんが魔女にならないとは限らぬ。なぜ誰もそれを言わぬのだ。

そもそも、たかだか200万だかの下らぬ使い込みはあまりに叩きやすいから叩いているのだ。世の中にはもっと叩きにくいが叩くべき悪ももっとあるのではないか。この舛添叩きにうつつを抜かすマスコミの狂想曲には狂った日本の象徴と思えてならない。

ひとは皆、舛添程度には愚かである。彼のみ、セコくで愚かなのではない。その前提で、批判するなら批判すればよい。

もっとも、マクドナルドのクーポン券を職員に自宅までとってこさせてそれまでの間数名で待っていた、というエピソードにはもっとも呆れた、あれほどのセコさは流石に常人の追随を許さないが。

しかし残余の件はあまりにも取るに足らぬ。たしかに「ノブレス」な心意気をいささかも感じさせぬ彼を当選させたのは都民とミンシュシュギの間違いことであったろう。しかし今の箸の上げ下ろしから何から全て否定するような風潮は異常である。

 

 

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