井上有一を見に金沢21世紀美術館にいったこと
2016/04/03
井上有一展、最終日に行ってきました。
ほぼほぼ休みのない毎日の日程なんですけど、やっぱり美術商ならココぞという展覧会は行かなくっちゃという心意気は失っていないつもり。
で、FaceBook上で21世紀美術館の秋元館長がもうすぐ終わる旨書いていらして、あそうだった、ヤバイぞ、と、急遽、北陸新幹線予約して行ってまいりました、金沢。
21世紀美術館の約半分のスペースを使って行われたこの展示では、井上有一のエキスのほんの一端に触れられたというのが私の感想。これでわかった、とは思わない。この男の謎の入り口に立ったか、という感じです。
普段我々も扱う機会の多い、書家としてまっすぐに屹立する存在の井上ですが、普段は「貧」とか「鳥」とか、一文字だけドドーン、と見るわけですが、
今回の展示では「鳥」なら「鳥」を、何度も何度も書体というか形を変えて書いており、この書家が「鳥」という文字をどのようにとらえているか、「書」というものの「骨」を見たように思いました。
書家として井上は当然、篆隷行草楷書の知識はあると思いますが、書道で大事なのは、基本の形、すなわち書道においては篆書、あるいは文字の形象の背骨をつかむことかと思います。その「骨」をつかめば、前衛だろうと楷書の丁寧体だろうと、「意味」あるいは「心」が伝わってくるのですが、骨がなければただの落書きになる。同じ文字の様々な結体を見ると、(結体=パソコン用語ではインスタンス、といいますな)、鳥が鳥であることの意味と無意味が浮かび上がってくる。文字を書いていると時々これはいったい何を意味するのだ、と何か文字がバラバラになってくる錯覚に陥る時がありますが、井上の文字は文字の肉をゆさぶり、文字の意味をいったんバラバラにして、骨と形を見せてくれる。一度にいろいろ見ることで、その試みの揺れが見えるのが面白いですね。
しかし、まったく読めない難読字もチラホラ。例の「貧」は貧しい心がスタコラ歩いているような格好で、これはわかりやすいのだけども、どう読んでもわからない字も多々有り。これクイズにして社内でやったら楽しいじゃん、と妻が言ったが、なるほどそれは面白いかも。なにしろ「正解」があるのも便利。普段僕らが悪戦苦闘している武将や茶人の書状の字なんて、正解ないんだもの、たぶんそうだろう、と言うだけで。クイズにしやすくて「いいね!」
「愛」という文字はアラーキー書道(うちにもありますよん)の「愛」とソックリなのがご愛嬌。
井上は右翼教師?から空襲の経験を経て、書で自分の命を燃やす、とシフトしたらしいけれども、その書に駆り立てた情熱、他の前衛芸術(白髪とか)の関連性、教師としての井上、その後の美術業界あるいは書道業界への影響など、まだ彼については知るべきことがたくさんありそうです。
そういえば「世の中金金金金」と書いた井上の作品は面白かったな、我々美術商をはじめ、世の中のココロの汚れた大人のすべて、そして自分自身を呪うような皮肉と挑発。あるいは金金金、と書くことで厄落としをしているような気もする。この書をどこかで調達してうちのカタログの表紙にしようか。「金金金」金くれ。名誉をくれ。女をくれ。くれくれ。金曼荼羅。その呪文の皮肉かあるいは効用か、今や井上の書は千万円を超えることも珍しくない。ピカソもロスコも偉大な芸術ひとつで小国家の予算にも匹敵する事の皮肉。世の中の世俗欲からの解脱を目指す良寛、白隠、あるいは熊谷守一を贖うのに大金のいる矛盾。カネカネカネカネ、と書き連ね金を欲しがり金に眼がくらんだ先に何もいらない世界もあるかもしれないこの不思議。カネイラナイ、と言ってみたところにこの世の最悪の悪が宿ることも有るコノヨの真実。この金と美術の堂々巡りの人間宇宙をどう考えるのか、誰か答えてくれるのか。
しかし!最終日とあって、その入場者数の多さに驚き。だって30分以上の行列でしたもの。まあある意味前衛書道って難解物好きのイメージありますけれども、これだけの人がはるばる各地から集まるだけの強烈な軌跡を彼が残したこと、そして海上さんはじめ多くの人が彼の仕事を世の中に広めてきたことを実感する「イベント」でした。