現代日本って、案外、面白いぜの巻
昨日は、原田光先生が「鳥海青児、絵を耕す」という本をお書きになったパーティがあったので、参加させていただいた。原田先生にお会いするのは久しぶりだったので、あらためて紹介していただいた。「ああ、東大出身のバカがいる、と聞いていたが、君か!」と無邪気な笑顔で言われた。バカと言われて嬉しい、というほどのことはないが、そういう事をイキナリいう人は小気味いい。常にひとに率直であろうという無邪気さと心意気が伝わる。毒舌で有名?な草薙先生とか、さまざまな方が挨拶されて、美術評論世界の真摯な知性が垣間見れて楽しかった。
先に挙げた先生の本は買ったばかりでまだ分厚い本の10分の一も読んでいない。昔、父のやっていた、今は松坂屋の再開発で跡形もなくなった(さびしい!)思文閣東京店の上にあった洲之内徹の現代画廊についての本を作られたことのある原田先生の文体は、鳥海という作家を、作家というよりひとつの風土史のようにして少しずつすこしずつ掘り返し、「耕し」ていく。私達美術商は古今東西の作品をあれこれ舐めていくが、あんなふうに一人の作家を10年も20年も「耕す」ことは、おそらく不可能である。あたかもひとりの人生を生き直すかのごとくである。しかし思えば、ひとの作品を見る、読むということは、ひとの人生を追体験することにほかならない。自分の人生を生きるために、ひとの人生の影を踏んでいくことが、人生には不可欠でもある。少なくともこのひとつのこの大きな深い「畑」を、少しつきあって読んでみようか、という気にさせる本だ。
このパーティでは、さまざまな人と話した。おしなべて画商か、美術史の先生方である。これにかぎらず、先週は、様々な人と雑談する機会が多かった。コレクターさん、同年代や若い世代の画家など。
とくに、少し若い世代のひとと話すと、案外おなじ現代を生きてることが実感されて楽しい。80年代から今までの30年。バブル、ベル リン、オウム、ふたつの震災、エヴァ、村上(三人いる)などの時代をどう捉えてきたか。マスコミのフィルターでなく、どうその時実感して、今はどう捉えているか。普段 無口な人も、そうした話題で意外な感性を見せたりもする。
しかし思う。我々はこの現代のおそろしい様々な出来事に不可解なまま、立ち尽くしている。
例えばオウムにしたって、あれはなんなのか、きちんと語る小説も映画もない。80年前の戦争を語るにしても、より雄弁なのはアメリカ映画しかないように思 う。シン・レッドラインとか、イーストウッドの硫黄島二部作とかさ。あの湾岸戦争も、ビンラディン暗殺も、驚異的スピードで、エンターテイメント映画にした。なんちゅう消化力だ。そのうちISSネタの映画もできるんだろうな。その点、物事を、語るスピードが日本社会はものすごく遅いような気がする。
アンタッチャブルが多いのか。伊丹十三は不審な死を遂げた。日本ではあまりヤバイことに首を突っ込むと食えない、ひどい時には消される、という恐怖感が、強いのか。
でもなあ、案外単なる知的怠慢のような気もせんでもない。
小説書いたり映画作ったり美術やるひとには、この混沌は実は発想の宝庫でもある。20世紀少年、映画版は嫌いだがマンガは面白かった。浦沢直樹の、面白さはこの現代の不気味さを、エンターテイメントとしてガンガン組み入れてしまうとこだろう。
ニンゲンのココロも社会も、まだまだたくさん、掘れるよ。真田丸もいいけど、イロイロ、期待しよう。
(FBにもほぼおなじ文章を投稿したけど、こっちにも載せてみた。)