銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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熱海で思ったこと。

   

 熱海に家族で出かけた。海に近い観光ホテルに泊り、何もせず、翌日はイキアタリバッタリで、MOAへ。
父の不在を和らげるための旅行でもある。旅行に行った人数は、奇数。いつも偶数で動いていた家族にとっては、初めての数だ。新幹線も、旅館の部屋も今までと勝手が違う。
先日、仲の良い画商さんと話した。香港にお父さんと千秋君と旅行に行ったのが、あれが最後の海外になったんだねえ。楽しかったねえ。あのマッサージ屋さん、気持よかったなあ。また行きたいなあ。
そう言われると、悲しくなった。三年前、仕事の用事もあって、香港に父と何人かの画商さんと出かけた。目ン玉が飛び出る価格の中華に二人でいったり、何人かの同業者で骨董屋やコンテンポラリー画廊、美術館をめぐり、マッサージ・サウナでふんにゃりしたり、ご飯をたべたり、一方で、思いがけない人間模様に出会ったり、香港在住の昔の知人に出会ったり、しかし、おしなべて父が同行すると、どこかズレているので珍道中となる。
 でも、確かに、楽しかった。そして、これが父にとって、最後の海外になる、なんて、誰も思いつきもしなかったと、思う。
 ずっと人生が続くとも、この世が続くとも思っていないはずだが、こんな思いがけない最後があるとも思っていないのが人生だ。熱海で海を見ながら家族で飯を食っていて、こうして飯を食って、つかのま、生きて、自然に還っていくコトは、いったいどういう意味があるのだろう、とぼんやり思う。それでも、美しい作品や美しい人との出会いが、不可思議な人生なるものに光を灯す。そのことが、詰まらないのか、詰まらなくないのか、ふとわからなくなる。
 それでもこうして日々は一種滑稽でさえあるけれど、確実にあなたも私もこの世から消えていく。出会った人たち、出会ったけれど、今後もう会うことのない人にも、黙って、御礼をしたい、ありがとうと。もう一度、会える人には、黙らないで、どこかで、御礼をいいたい。恨んだ人さえも。
 さて、明日から4月になる。4月は、ゴルフを始めようよ、あらためて、と友人に誘われる。葬式やらその後の会社の立て直しやらで、忙しいので、ゴルフは消極的になっていたのだ。けれど、この旅行で見えてきたのだ。今月は、お墓を探さなければならない。京都を本家とする私達、東京田中としては、あらたに、「代々の墓」を創始する必要があるのだ。そんな面倒事が、この年令で来ることも、予想外であった。予想外だろうが、必要な物は必要である。ゴルフもあるいは引き続き、お預けにする必要があるかもしれない。
 父は、あまり墓参りなどを大事にする人ではなかった。しかし、それは改めなければいけない。文化とは、歴史という縦のつながりを無視しては成り立たない。私達家族が生きる為にも、必要だ。生きることは、少し悲しくて、心細い事だ。歴史に自分をつなぎとめるアンカーとして、墓は必要なのだ。まあ、別に心理的に不必要だとしても、どのみち法的にも作らねば仕方がない。まだ父の骨は地上にある。父は、先祖がどうこう、とか話すのを面倒くさがる人であった。末っ子の無責任さでもあっただろう。しかし、どういう配剤か、彼が死んだことで、私たち遺族は、ご先祖やら宗派やらというテーマに否が応にも向き合わなければならないハメになった。人間はどういう役割を果たすかわからないものだ。会社への神棚か仏壇の設置も、いずれ考える事になるだろう。
 現実的に、墓地を探さなければならない。東京でお勧めのところは、ないだろうか。この文章を読んだ方、そっと教えてほしい。
 熱海のMOA美術館は、仕事上も我々一族が多少関係し、父と家族の思い出の地でもあった。何度か、孫たちとここに来たはずだ。みなで一緒にいると、父の不在がゆるやかに受け入れられる心地になる。たぶんこれは、ゆるやかな再生のための旅であった。
 そういえば、近い親戚に、今日、ひとり、赤ん坊が生まれた。21世紀の子供。赤ん坊は未来に、何を見るのだろう。僕の見ない未来を、見るのだろう。

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