銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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いくつかの本

   

昨日は、少し休日っぽく、部屋の片付けだの細かい買い物だのをすませた。

iPhoneの大容量蓄電池を物色するつもりが、本屋にひっかかり衝動買い。六冊ほど購入。
「日本中枢の崩壊」古賀茂明
「収監」堀江貴文
「憂鬱でなければ、仕事じゃない」サイバーエージェント藤田、幻冬舎見城
「成り上がりの処世術」新堂冬樹
「普通のダンナがなぜ見つからない」西口敦
 古賀さんはTVタックルでも一種の生真面目な道化のように振る舞って印象深いが、たしか先週あたり経産省からクビを勧告された筈である。この国では、生真面目にふるまうと出る杭は打たれるらしい。恐ろしい世の中である。
 ホリエモンの本は、つい衝動買い。いつも彼の本はつい、買ってしまう。かならず、あーそうだよね、確かに、という視点が含まれているので。
 見城さんの本、立ち読みしたら、パーティには出るな、と書いてあって。なるほど。講演会とパーティは出るモノじゃあない、と尊敬する経営者にいわれたことがある。講演会は、出演するもので、聞くモンじゃあない、と公言しているそうである。彼は演者にはなるのであるから、なんともパンチのある発言(矛盾しつつ、真実をいいあてている)。パーティ、たしかに難しいなあ。立食は苦手であるし、たしかに名刺交換したことが次には繋がりにくい。美術館のオープニングレセプション、なんかが業界では多いけれど。顔つなぎのキッカケとして、全く無意味とは思わないが、出ないですむひとは出ないで良いかも知れない。でも、少人数のホームパーティは楽しい。これはいわゆる日本社会のパーティとは空気が違う。題名の「憂鬱」も共感。経営者は常に憂鬱である。しばしば、逃避したくなるが、本当に憂鬱で、たまに死にたくなる人がいるのもわからなくはない。が、自分は躁鬱の気質はないので、死ぬ憂慮はしていない。それよりも、「憂鬱」になるということは、悪い事が起こりうることを認識し、手を打っていくための準備の心なので、あまり気分のいい物ではないが、必要な「能力」ともいえる、ということを、書いているのだろうか、まだ読んでいないのでわからない。
 新堂氏の小説は読んだことがない。実はこの本は「アングラ本特集(ヤクザの処世術など)」の平積みコーナーで発見。なかなか面白い編集方針の五反田の本屋であった。アングラ情報には、人間社会の真実をついたことがあって面白いのだ。ヤクザ屋さんの実態など、本に書いてあることが本当かはわからないが、読めば大抵社会構造が見えて、人間が見えて、勉強になる。他に「もてる技術」「風俗ミリオネア」などこの書棚から購入するが恥ずかしいので片隅に書いておく。
 「普通のダンナ」これは、30代の結婚できない女性が死ぬ気で読むべき本である。彼女たちが求める「普通の男」は実際には0.8%しかいない、という恐ろしい真実が書いてある。私がまさに言いたかった事である。何故か。「普通のルックス」「普通の会話」「普通の清潔感」「普通のファッション」「普通の身長」・・学歴、年収と50%を7回かけると、0.8%になってしまうのである。その普通と、「普通の出会い」つまり、お金をかけず(合コンだの相談所だの)に出会う、ということを想定すると、三十五年ほどかかる、と筆者はいう。
 「ゲゲゲの女房」のごとく、会って三日目で入籍、みたいな世界がいいのかもしれない。
 ちなみに、ウチの夫婦も、お互い、多くを求めておらない。「そこそこカワイゲがあればよい」である。だいたい、35%くらいの異性が相当するであろう。そう考えると、気が楽で、よろしい。死に別れたら、すぐに次のを探すように取り決めてある。死んだあの人が忘れられない、なんて韓国ドラマみたいな感傷は人生の邪魔である。でも、つい比べちゃうんだろうね。山口百恵の歌みたいに。

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