銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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池永康晟がアートコレクターに堂々登場

   

世の中は地震でタイヘンである。アートフェア東京も4月から7月に延期された。
しかし、しかしそれでも世の中は動く。動かなければいけない。東日本が危機に遭っても、被災していない個人と社会は大いに動き、喜び、楽しんで、納税も寄付もして東北を助けなければいけない。
目の前が暗くなるような出来事が多くても、目を見開いて、前に進まなければいけないのだ。
池永康晟がアートコレクター5月号に登場した。日本画で同じく女性を描く森本純君との対談だ。居酒屋で「対談」したのには居合わせたが、今回は、誌上で「対談」しており、かなり彼らの姿勢の違いが際立っていて興味深い。
それにしても、いつもの池永節が炸裂している。「おんなを描くことは、セックスすることと同じ。」彼がいつも言うことだ。まわりにいる「常識的」な人が「引く」台詞だ。しかし彼は真剣である。おそらく、彼から「おんな」と「描くこと」をとったら、死んでもいいと思っているであろう。いやそうでなくても捨て身の男である。たぶん、いつでも死ぬ覚悟が出来ている。
森本純君は、森本草介先生の息子で、日本画家だが、緻密な風景画と、日本情緒ただよう、甘いテイストの美人画を描く。美人画、という言葉がもしかして陳腐化しているとしたら、この記事のタイトル「おんな絵」はなかなかよい言い方だ。彼が池永へのインタビュアーとしていい役割を演じている。池永はセックスの距離感がいつも頭にあり、絵への間合いも短い。眼を画布にこすりつけるように色を塗り、部分から全体を仕上げる。一方で、森本君は一定の距離を置く事が大事という。
この対象に没入する態度が、最終的に成功するかどうかはわからない。しかし、私たちを独得の官能に誘う事は間違いない。写真にも、従来の絵画にもない、距離と息づかいを感じさせる。
地震は、シンプルな彼のアパートも揺らした。彼は二つのことを思ったという。「締切が延びる」「このまま死んだら木造家屋なので理想の死に方だ」まったく恐くはなかったという。ボクは地震でなくても足音で揺れる彼のアパートに滞在するのが恐かった。ボクには死ぬ覚悟が足りないらしい。彼の思い通りに、アートフェアは延期になり、締切は延びた。死ぬことはかなわず、もう少し丈夫なアパートに越したらしい。
男はみな、好きなおんなの前で涙ぐましい位、純情である。池永はいつもセックスは「いかに許してもらえているか」の試金石だという。みずみずしい考え方である。恋と芸術がひとつであり、その事に命を懸ける池永は男の憧れの生き方であろう。ま、西洋でいえばピカソみたいなもんであろうか。彼の絵を購う人は男も女もその純粋さとエロスの表現が見事に結びついた様に心打たれるのだと思う。
どうして、こんなに女性というのは素晴らしいのだろう。たぶん、人間に残された最後の本能であり、(養老孟司のいう)「自然」だからなのだろう。ときにエキセントリックに思える彼の発言は、エロスの司祭の唱える、マントラなのだ。

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