携帯文化は嫌いだ。とある演劇から
若い友人が関わっている演劇を見に行った。
集団自殺をテーマのおモーイ話しであったが、携帯電話の会話がキーになる。
キーになる場面意外にも、登場人物がやたらに折りたたみのケータイをパチリと開けて、見入る。
どこでもそこでも、みなケータイをパチリと開く。群集の中で自分の場所を確認する。携帯電話というのは携帯用のおしゃぶりみたいなものかもしれぬ。古いたとえでいえばライナスの毛布。
自分でするのはよいが、他人のは見たくない。勝手なものであるが。
ただ、自分は他人とおしゃべりしているときは、極力携帯にでるのを抑制している。ま、相手は必ずしも私のことを尊重してくれるわけではなく、会話中でも、平気で携帯に出る友達が多い。そういう相手とわかっていれば、自分もおかまいなく、携帯に出ることもある。でも、目の前の相手より、本当に大事なのか、目の前の人の時間を奪って良いのかどうか、本当はどうなのか、あまり検討されることがないのは残念である。
いや、携帯のマナーの話題ではない。演劇の携帯。演劇にも、携帯を持ち込む、ということはその演劇のテイストをかなり束縛する。つまりリアリティ重視。野田秀樹の芝居にはたぶん出てこないだろう。すくなくとも小道具としてうるさすぎる。扇子でももってやるのならアリだろうが。小道具で本人のを使ったら、他人から着信したらどうなるのといらぬ心配もしてしまう。
演劇は、肉体のドラマ、声のドラマになってほしい。どうもあの孤独を象徴するアイテム、ケータイは芝居じゃあ見たくないなあ。ドラマ「24」の携帯の登場の仕方には、納得だけど。
その演劇には、サラリーマンの群れのことを「トカゲ」に象徴させて、人に被り物のトカゲを乗せて、「集団」を表現していた。無名の人、システムに従属する人、背広のダークな集団。みたいなことのメタファーね。あるいは「オトナ」の象徴ですか。
昔野田秀樹が「トカゲ」「人影」の言葉がけで「ニンゲン」が「人」になるための神話みたいな物語を紡いでいたが、ここでは没個性の象徴としてのトカゲである。うーん、しかしだなあ、没個性の集団、つーのは、必死に勤め人をやったことのない人(演劇人)の無知による認識のように思うね。背広きてようが毎日同じ電車に乗ってようが、人間にはひとりひとりドラマがあるし、個性もある。現に私も新橋の雑踏に混じっているが、没個性化していると、他人も見えないし、もちろん自分も自分、と感じている。だってもう死ぬほど毎日ドラマティックである。「人」を見るのに「集団」と見るステレオタイプの描写は、つまらん。
「オトナ」になりきれるか、なりきれないか、みたいな議論が劇中出てくる。「大人計画」の松尾スズキや、クドカンも、似たよーな話しをよくしますなあ。あたしは毎日仕事で「大人」をやっているが、そういう議論は十代で終りにしてくれ、と思う。案外、ひとりひとりは生々しい現実を生きるためにサバイバルしている、大人なのだ。
ことさら「トカゲ」をかぶせなくても、「ケータイ」を持つ集団、ということで、むしろ「没個性」は象徴されるような気がする。寺山修司なら「ケータイをすてよ、旅に出よう」と書いたのじゃあないか。
ま、あたしもiPhoneも好きだし、携帯も使いますけど、もちろん多用しますけれど、大事な話しをしている時と、映画館と、舞台の上では携帯をOFFにしていて下さい、と思うのである。それと交換会の時もね。(^_^;)
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