「徹底抗戦」と「7つの習慣」を読んで
さて、さっそくホリエモンの「徹底抗戦」を購入して読み始めました。
一方で、前から購入してあった、「7つの習慣」も読書開始。
ふたつ一度に読むと、見えてくることがありました。
ホリエモンが何故逮捕されたか。
ホリエモンは法律違反で逮捕されたのではない。法律的に、彼が有罪、ということではないと思います。まあ、仮に有罪であったとしても、
彼の本で主張しているように、世間の罰則相場(過去の判例)から見て、異様に重い処分となっている。
彼は倫理的に国民に否定されたのだ、という事が見えてきます。
あるいはテレビを殺す、と発言して、テレビに殺された。
なーにを言っているのだ、と思われるかもしれません。
「7つの習慣」という本では、人間が成功するための「原則」について語られます。有史以来、成功した人の共通点は何か。万有引力、
と同じ、法則、のようなもの。経営でなく、子育てや恋愛、すべての事に共通する成功原則のようなもの。
まあ、まだ読み始めたばかりなので、丁寧に語ることは難しいのですが、直感的に思うことは、ようするにホリエモンが世間に「消された」
ということです。殺される代わりに、消された、ということ。
私は、特捜検察が堀江さんを逮捕、おそらくは有罪になろうとしていることは、不当な事ではないかと思っています。彼の株式100分割、
時間外取引、利益のバランスシートからのつけかえ、などは単に「前例のない」「前例の少ない」事であるか、あるいは経済上の「ルール違反」
であって、経済的に世間を混乱させた「刑事犯」としては無理があるでしょう。検察が逮捕しなければ彼はヒーロー(あるいはヒール)
で居続けたかもしれないが、新興株式市場の混乱はなかったでしょう。ライブドアショックの本当の責任は検察にある。
何故かマスコミは指摘しないのが不思議なんだけど。
けれども、検察は理屈で動いたのではないと思います。前のブログで内在的論理を知りたい、と書きましたが、まあ推察するに
「国民の倫理観を代表して」彼らが動いたのではないかと思います。マスコミが一社も検察を叩いてこなかった事に、
彼らは自信を深めているのではないでしょうか。だから、検察は私たち国民の「無意識」を代表して、彼を社会的に嵌めた、ともいえる。
一種の大岡裁き。ホリエモンよ、反省せよ。ということですね。
たぶん、堀江さんは、世間の反発を招いていた。お金持ちで公式の立場でありながら背広を着ない、フジテレビを買う、といいながら、
テレビのことはろくに知らない。しかもテレビを自分の手の内でゆっくりと「殺す」とまでいう。不遜。
不遜なことに私も含め、喝采を送った若者は多かったし、今も多いと思います。常識破りの発言の中には、「王様は裸である」
と叫ぶ子供の「真実」が含まれていたから。
でも、世間、あるいは世間を支配する層は、「不遜」きわまりない。つぶす。そう思った。つまり世間(または背広族)
とのチカラカンケイにホリエモンはいったん負けたのです。
あるいはこうも言える。ホリエモンは「真実」を語ったが、成功のための真実の「法則」には逆らってしまった。
成功の真実とは何か。たぶんそれは「思いやり」とか「人の気持ちを考える、聞く」ということ、あるいは『文化』『無駄』
『人のプライド』というものを尊重する、ということではないでしょうか。
彼の本「徹底抗戦」の書き方にも、まだ彼の考え方の甘さを感じることがあります。それは彼が書物での「抗戦」、
すなわちいったん彼を突き放した「世間」を味方につけようとしているにもかかわらず、そのなかで、「個人の言葉」を使っていることです。
「冗談じゃねーよー」というような言葉が、地の文で出て来る。ブログに書いた「日記」ならいいですが、言葉は武器。書物なら、
よく研ぎ澄ました言葉を選ばなければいけない。「世間」を嘗めてしまっている。もともと味方だった人以外も自分の陣営に迎え入れる為には、
「公式」の言葉を持たなければ負けてしまう。検察や、二枚舌であるかのごとく彼が揶揄していた北尾さんにも。
佐藤優のように知的社会の全面的応援を得る、というのは難しい文体だろうと思います。
宮内さんが「罪」を認めたのは、一種の司法取引を期待したか、あるいはホリエモンが著書で指摘したように「横領」を隠したかったのか、
わかりませんが、彼のほうが、世間の「ルール」に敏感だったということでしょう。彼がいつも背広を対外的には着ていた、
ということと関係してると思いますが。
私は生きること、人生は一種の魂の浄化の修行ではないか、と考えることがあります。紆余曲折を経て自分がこの商売をやっていること、
ソレナリに苦労をしているのも、ある種の宗教的な意味での魂の修行。
その意味で言えば、検察は本当に親切な神様の福音を彼にもたらしているのかもしれない。ふりかえりの時間を与えたという意味で。
まあ本人にしてみれば、フザケンな、くだらない理屈をほざきやがって、と思うかもしれませんが。
で、堀江さんはこれで、反省するのかしないのか。反省しない、のも頼もしい気がするし、反省する、としたらそれも楽しみ。
どういう反省になるのか、それはこの暇な時期にどんな本や人と彼が出会うかにもよると思います。ある種の天才だと思っているし、
つぶれはしないと思うけど。
それと検察。内在的論理は「国民の声」あるいは「支配層の声」または「マスコミ」なのか、本当のところよくわからない。ただ、
恐いのは「それでも僕はやってない」の映画に代表される「検察」や「警察」の無謬性(彼らは絶対に正しい)
みたいな事が大小の事件で蔓延しているらしいこと。彼らが「魂の浄化」に役立っている、ような書き方をしましたが、それは「神」
の視点でいえることで、同じ社会の人としてみた場合に、やはりいくらなんでも不遜じゃないの、あるいは恐ろしい、と思います。
戦前の特高警察みたいに「絶対善」を気取るのなら。本当に慎重にやってほしいし、間違ったと思ったら「間違った」
と認める存在であってほしいと願います。チカンで捕まったら、あるいは別の容疑で捕まったら、本当は無実でも犯人にされてしまう構造、
というのが本当にあるとしたらこの社会は恐ろしすぎます。本当のところどうなんでしょうか。
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