銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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暴力について考えた

   

暴力と理不尽について

今、この業界でもっとも有名なお店のひとつである、市ヶ谷の夏目美術店の故夏目四郎さんの『発句一代』を読んでいます。

夏目さんについては、非常に非常にステキな方で、昨年亡くなってしまったことはとても残念です。この本の感想などは又触れますが、今日の話題はこの本の中で出てきた「同時多発テロ」で思ったことについて。

この本の中では、本当に怖い出来事、戦争以来の未曾有の恐怖の体験、という趣旨の表現があったかと思うのですが、どうしてこういう「怖い」出来事は起こるのだろう、とボンヤリ地下鉄の駅のホームで考えました。

あの「同時多発テロ」が起こったとき、小林よしのりはその漫画で「そうか、そのやり方があったのか!」とのたまったのですね。いまや一極になってしまった超巨大国家アメリカへの異議申し立てに無力感をかかえる、イスラムを含む多くの人にとって、ホンネのところでは、そう思わせる事件であったことは間違いないでしょう。

でも、実際の所、あのビルで亡くなった人たちは、別段、「憎しみ」を抱いた人たちが、「憎しみ」の矛先を向けるのにもっともふさわしい「当事者」ではないんですよね。

「戦争」とか「テロ」で死ぬのは、実際の「憎しみ」の対象者で無い人ばかり。

(長いので続きは次のリンクをクリックして下さい)



911でも、ヒロシマの原爆でも、死んだ人たちは、アメリカ人たちが「憎い」ひとりひとりではなかったろうし、アフガニスタンでも、イラクでも、パール
ハーバーでも、日中戦争でも、「殺される」人と「憎しみをむけるべき」人とは常に別。まあ甚だしかったのはイラクでしょうね。

常にその「理不尽」な死が、人間を苦しめる。ニンゲンの死は、道ばたで子供がいたづら、あるいは故意でさえなく踏みつけられて死ぬアリンコの運命と同じ、
と考えた方が気持ちの整理がつくのかもしれませんが、911の映像を見て「やった!」と溜飲を下げた人たちも、実際に死んだ人たちの「死」に本当には向き
あっていないはず。どこまでも理不尽な憎しみと理不尽な死ばかりが続く。

で、そこでですね、昨日の朝日新聞で、魅力的な暴力映画を作り続けるタランティーノと三池崇史の対談が載っていたのですが、そこで「暴力」と「セックス」
はニンゲンの根源的な姿であり、そこには笑ってしまうような本質がある、みたいな事を書いてあったのです。タランティーノの怪作は(KILL BILLな
ど)確かに面白いのですが、ここで描かれるのは、「個人」が「個人」へ向ける「憎しみ」と「暴力」であって、だからこそここでの暴力は「爽快」なのかもし
れません。ある意味「健全」な「暴力」。組織、イデオロギー、あるいは国家がからむ近代の暴力は「暴力」から「人間性」を奪っていく無力感から逃れられま
せん。

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