銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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東山魁夷展

      2016/07/08

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遅ればせながら東山魁夷の展覧会(国立近代美術館)に行きました。


うーん、やはり東山は偉い、ということを再確認


なぜ「確認」なのか。



本当のことを申しまして、この東山という人の異常な人気には画商として食傷気味になっているところがあるのです。無数に生産される複製版画。もう毎日毎日リトグラフ、朝霧に隠れる山肌や、白馬をコレデモかと見せられて、それでも高い値段で売れていく東山の複製。白馬なんかみると何か安易なロマンチシズムを見せられているような気までして。



けれども、東山の美術家としての格闘は私の勝手な感想と関係なく戦前から一貫して続き、彼が風景画に込めた意味、あるいは白馬に込めた何かしらが伝わってくるのです。



東山の風景には人はほとんど全く登場しません。厳密に言えば、初期の作品には多少登場しますが、作品の数で登場人物を割れば0.1%に満たないでしょう。私は個人的には人物を描いた作品が好きですが、一切人を描かない、しかも北欧の自然により心象に近い、という作者の一貫した姿勢に、厳しい死生観を感じるのです。


生きること、死ぬことを超えた存在への肯定。自分という人生の前にも後にも続く、世界への肯定。そのことでの自分やニンゲンの肯定。それは「否定」と言ってもよい内容の「肯定」なんですけれども。


それと「白馬」。白馬、いやったらしくていやですねえ、岡本太郎的に言うと(といって意味のわからない人は、岡本太郎の著書を読んでね)。でも、東山の画業に白馬が舞い降りた瞬間、を美術館で追体験すると、つい感動してしまう自分がいるのです。


ま普通、白馬なんか登場すると、文人画でいうところの「人」と同じで、作者が投影されている、と見ることが出来るのですが、何故か東山は、一切白馬が何を象徴しているかは語らなかったそうです。



「白馬」は作者なのか、自然を象徴する妖精なのか、あるいはたんなる東山の思いつき、妄想なのか。東山の大好きな年輩の女性への目くらましなのか。本人がどういう意識なのかはわかりません。わかりませんが、私には,白馬が,厳しい無人の自然、あるいは無常
というある種の諦念を受け入れた東山の人生観に、それでもなお表れた「この世」あるいは「人の世」との窓、結節点、のように好もしく思えるのです。いや今日はとりあえずそのように感じました。まあ本人がお亡くなりになっているので、ボクの勝手な投影を書けるのですが。


 


ごく技術的な面で言っても、色と形、構図への徹底的なコダワリ、プロの画家としての矜持を守り続けた画業の成熟は見事でした。



おまけ( -д-)ノ東山の義理のお父さん、川崎小虎(しょうこ)と東山の展覧会が以前ありましたが、その図録を近美のライブラリで発見。小虎は弟子と違って、人物像、風俗図、幻想図などが得意の人。もう少し楽天的ヒューマニズムよりといいますか。でも私は好きなんですね。今度のカタログ(14号)に東山はありませんが、小虎はありまーす、ぜひご覧下さい。


カタログの予約はまだ始めていませんが、もう少しで予告を出します。

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