戦後70年とロンギヌスの槍
2016/01/08
8月の初め、週末を利用して九州に参りました。たまさか8月の9日に長崎に行くことができたので、安倍首相も参加した平和祈念式典に行ってみました。会場の公園には人が溢れかえり、なかには西洋人やインド人と思しき方もいました。ゲートで区切られた本会場には入ることができず、炎天下のなか、「その時間」、11時2分が近づくと、木陰で休んで談笑していた方々もみな立ち上がり、サイレンの音とともに黙とうをささげました。ひどい暑さだったのですが、死者に弔意を捧げる無名の大勢の人々の真摯さに打たれました。
直接は聞けなかったのですが、長崎の市長、被爆者の代表の方、議会市長などのスピーチでは安倍首相の安保法案にかなりハッキリと反対の意を表して、安倍さんはさぞかし居心地が悪かろうと感じました。
安倍さんは自らの政策についてはほぼ触れず、安全運転のスピーチを最後にして、乗り切った形となりました。
さて、安倍政権が進める安保法案へは私の友人・知人を含めて反対する方が少なくありません。ぼくが敬意や愛着を持つ知識人や知人たちも、今回の「集団的自衛権」、および、将来のいわゆる平和憲法改定への意見は分かれています。この現象はなんなのでしょう。我々はどのように考えたらいいのでしょう。この法案を通すことは日本の未来を明るくするのでしょうか、暗くするのでしょうか。
いわゆる「9条」は、アメリカ占領軍の残した「武装解除」を永遠足らしめようとした置き土産に過ぎないと私は考えています。しかしながら、ジョン・ダワーの著書に「敗北を抱きしめて」というのがありますが、日本人は、まさに「9条を抱きしめて」生きてきました。
おかしな話ですが、9条、というとぼくは「ロンギヌスの槍」を思い出します。宗教的な元の意味はキリストを刺し貫いたという伝説の槍らしいですが、ここではエヴァンゲリオンというアニメに登場する「槍」のことです。この槍は人類の最後の砦となる巨大基地の地下で、「生命の源」でもあり破壊者にも見えるお化けの親玉のような異形をした「リリス」というものを十字架に串刺しにしているのです。
すなわち「リリス」が日本、「槍」が9条を象徴しているように思われる、ということです。
かつて得体のしれない情熱をもって大陸と太平洋を蹂躙した私たちの祖父の時代の「力」は未来永劫封じ込めておくべきだ、というのが安倍さんの方向に「反対」する日本人の無意識的、あるいは意識的な感性ではないかと思います。
日本人は自らを刺し貫いた「槍」を愛し、一体化し、もう抜けない、この槍とともにこの「十字架」と生きていくしかない、そう思い定めたのでしょうか。「槍」を製造して使用した当のアメリカはもういい加減70年もたっていつまでも独り立ちしないのでは困る、もう自分たちもいつまでも守っていられない、自分の足で歩いてくれないか、と言われているのにもかかわらず。
「日本の一番長い日」という著書を書いた歴史家の半藤一利さんは、安倍政権に反対する理由として、先週の週刊文春で次のような内容のことを述べています。国立競技場の問題でも象徴されるように、日本の官僚には責任をとる、という仕組みが欠けている。かつての戦争で、ノモンハンで敗北を喫した官僚がなんら降格されず、その後も幹部に居座り、さらなる日本の泥沼の戦争を招いた。その体質は何も変わらない。アメリカは信賞必罰、必要なときに必要な人事をして、「勝てる」体制が作れるのに。
私も全くそう思います。東京裁判で連合国に「戦犯」を裁いていただいたものの、私達が本当に知りたいのは、なぜ日本的意思決定では、戦争にかぎらず「敗北」を招く流れを改められないのだろう、という謎です。国家単位として「適材適所」をとり、責任をとる体制ができていれば、あの原発事故も、国立競技場の問題も、未然に防ぐことができたのではないか。あの「戦争」も、勝利とは言わないまでも、あそこまで悲惨な結末を迎えずに済んだのではないか。こんな「日本人」のまま、あの「ロンギヌスの槍」を抜いてもいいのであろうか。
爆笑問題の太田さんは「憲法9条を世界遺産に」という主張をしています。これから先の人類史を見通した時に、いち早く政界融和の理念をリードしたのが日本の「9条」ではないか、という視点だと思います。これはこれで、ひとつの正しい理念かもしれません。
『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』という新著を出したエマニュエル・トッドは日本はリーダーとしてふるまう十分な力がありながら、その役割は自分にないと考えているようにみえる、という内容を述べています。フランス人である彼から見ると、技術力ではアメリカについで二位、そして海空戦の総力戦を戦った唯二の国でもあると。確かにそうです。ぼくが面白いと思うのは、経済的に相対的に力が弱ったと思われるロシアは、しかし日本以上にリーダーとしてふるまうことに慣れているという事実です。内向きになったオバマのアメリカより、ある意味で世界にコミットする強い意思を感じます。日本は軍事的な意味だけではなく、「槍」を心の奥深くまで差し込んでいるのでしょう。中国がすでに第二のリーダーとしてふるまう意思が出てきているのに比べて、いたましいほどの控えめな意識が日本人ぜんたいを包んでいるように思えます。
ぼくは「理想」をいつも考えていたいので、太田の言う「世界遺産」的なスタンスにも魅力を感じます。でもおそらく彼は自分がコメディアンだから洒落ですむ、という「甘え」で言っている面が少なくないでしょう。ながらく自衛隊を違憲としてきた社会党が村山さんが首相になった瞬間、合憲に切り替えてしまったことは記憶にまだ新しいところです。では今までの主張はなんだったのか。野党でいるためだけの何の理念もない言葉だったのか。場当たり的理想主義は、たんなるお念仏以下です。(お念仏を否定しているわけではありません(^^ゞ)。
半藤さんが言う官僚機構の欠点にもかかわらず、おそらく日本は長らくささっていた「槍」を痛みに耐えながら、ゆっくりと抜くことが必要だとぼくは考えています。もし安倍さんがこの法案で倒れても、いつかは誰かが抜くことでしょう。あるいは刺したアメリカの意思で。そして独立国であろうと願うならば、自分の身は自分で守る、という国家の原則に立ち戻ることが歴史の必然でもあるからです。これまでの歴史上のどんな時代にも増して、世界を人が行き来し、友情がはぐくまれ、恋も愛も育ち、戦争が起きにくくなっていくことは間違いありませんが、だからといって、非武装・中立的な方向性は、まだ人類にとって時期尚早だからです。
私はかつて牧場で働いていたことがありますが、牛は今までの群れがえをして、あたらしい牛舎にいれると、かならず「総当り戦」みたいな角つき合わせをして、しばらくすると収まって、秩序ができます。人間も動物の一種で、力の張り合いを、急にさける事はできません。人間の歴史を振り返ると、力の差が起きると、必ず戦争をして、秩序を作り替えてきた。これが偽らざる人間の姿でもあります。中国の海洋での「冒険」も見方を変えれば歴史の必然とも言えるかもしれません。日本人のいう、いわゆる「戦後」は、たんに米軍に守られた日本だけの「戦後」です。この70年、世界で争いがたえたことは、一度もありません。このいわゆる「日本の戦後」の期間を経験したという一点をもって、私達がいきなり「理想」を実現するというのは、ある種のおごりに過ぎません。
国会前で叫んでいる人たちの「デモ」は、今のところ暴力には発展していませんが、もし国家権力とかつての学生運動のように「力」でやりあったとき、そこには戦争でなくてもある種の戦闘が起きることもあるかもしれません。結局は意見が違う者同士が罵り合い、「力」の張り合い、になることは「戦争反対」の原則と矛盾してしまう危険をはらんでいます。私は今の学生さんの運動は間違っていると感じていますが、彼らは「国民」の代表だと標榜します。そうですか。私はあなた達の言う「国民」ではないのですね。非国民ということですが。彼らの無意識の発言に、ある種の暴力性さえ感じます。あなた達と同質でなければ、「敵」なのでしょうか。
でも本当のことを言えば、一方で、さきほど述べたような、半藤さんの危惧を私も持っています。あの戦争を「負けた」、原発行政で「負けた」、オリンピック運営でさえ暗雲が垂れ込めている、この私達に「軍事」をコントロールする実力があるのか。世界のどの国も持っている意味での「普通の能力」が、我々には欠けているのではないだろうか。私達日本人は心身を刺し貫く「槍」をもって制しないといけないくらいに、特別な「力」を持ち、なおかつその力を制御できない、組織を組むと暴走する、愚かさから抜けられない、特別な民族ではなかろうか。あの不気味な「リリス」のように。
その「おそれ」は、持っていても構わないと思います。この500年、日本には実際におおきな失政も多いのですから。しかし、いつまでもこの戦後の空白という「特別な状況」に甘えていられるとも思えません。自信がなくても、適切な組織を組むのが苦手でも、自分の足でたつことは、必要な時期が早晩くるでしょう。「日本さーん、退院ですよー、松葉杖で歩けますからねえ」70年で、敗戦ホスピタルから我々は追い出される日が来ようとしているのです。あの槍を後生大事に抱きしめていられるほど、歴史は我々に甘くはないと思います。「先生、まだ槍ぬけませーん」。
しかし、まだ私達は躊躇しています。国論が割れている今、日本人には恐れがあります。自分の足で立てるのか。私達は生まれながらにして罪人ではないのか。
今の時期、私達には必要な躊躇なのでしょう。こんな文章をたんにイチ美術商のぼくが書くのも、躊躇もあり、しかし問題の所在がどこなのか、直視したいからです。
これから私達日本人は、半藤さんの指摘した愚かさ、無責任ぶりをどう乗り越えていくのか、その問題にさらに真剣に向き合う、それしかないと思います。
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