銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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「読める書」が読めなかった審査の話

   

書道界には、面白い人がいます。

うどよしさん。

うどよし
うどよしさん

「読める書」にこだわって、公募展をなさっている方です。知的で、明るくて、素敵な書道家。

うどよしさんが、面白いのは、彼の作品自体は、丸文字風の、割合商業書体にあるような作風なのですが、背景として中国・日本の書道史をきちんと勉強して書道教室をやっていながら、いわゆる団体展的でもない、ある種の個人的グループを作って、独自の主張をしているところです。

独自の主張。それが、「読める書」なのです。彼がやっている書のコンペが、これ。

おもしろい書展
第12回「おもしろい書」展

『おもしろい書』展。

https://wayoh.jp/exhibition

書道展って権威主義になりがちだから、面白いでしょ?

でも、なぜ「読める書」がユニークなのか。面白いのか。

書の世界に興味のない方からみたら、おかしな話に思えることでしょう。

「え?読める書って?書って日本語でしょう?読めないのが普通で、読めると変なの?独自のって、どういうこと?」

そうなのです、現代の書道展(新聞社がやってる類の)と、現代美術的書道(戦後アバンギャルドおよびART SHODO)には、奇妙な一致点があります。

それは、「読めない」ことなのです。

私達はある意味で、読めない書に慣れています。サントリー美術館の絵巻物展のことばがきを読んでも、書の至宝展(https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=27)にいっても、明治の文学者の人の書を読んでも、読めません。で、読めないけど、なんとなくキレイに書けている字は、なんとなく偉く見える。もしかしたら読めないのは教養がない自分のせいで、教養のあるスゴイ人達には、価値がわかるのかもしれない、じゃ、偉いんだな、かっこいいんだな、となる。

書道を本格的に習うと、確かに今の多くの人には読みにくい文字を習うことになります。

まず、中国の話。日本語の源流は、中国の漢字です。これを、書道を勉強すると、習うことになります。五体あるんですねえ、書には。篆書・隷書・行書・草書・楷書。ふつう僕たちが使っているのが「楷書」です。はい、今あなたが読んでいる、この文字ですね。行書、草書はそうですね、ちょっと難しい、くずし字です。で、篆書と隷書は、ハンコに使っている、あのヘンテコな文字です。でも、文字の基本を知ろうと思ったら、そのへん一応全部勉強しないといけないのです。

次にですね、日本語の方の、古い文字。これは、平安時代に遡ります。日本語の「ひらがな」ですね。これは要するに、上の「草書」なんですけど、これはいまみたいな「あいうえこ、かきくけこ」の文字だけじゃなくて、同じ「あ」でもたくさんある。「い」もたくさんある。これ、明治時代までみんな読み書きできていたのです。でも、文部省が、バサっと切ってしまった。

この2つの要素で、日本人は、とにかく昔の文字が読めなくなった。

でも、読めなくたって、その「文字」はそこにある。

さらに。

戦後のアバンギャルドな書の流れがあって、「非文字性」というのが流行りました。比田井天来の息子の比田井南谷さんとか、森田子龍とか、このへんは「現代」ということにこだわるのですね。西洋の抽象画の影響を受けるわけです。

井上有一は「文字性」と「非文字性」の間を揺れるのですが、結局「文字性」に戻ってきます。

でもね。

「読めない」という次元では、中国の篆書隷書草書も、日本の平安から江戸の書も、前衛書道も、全部同じに見えるわけです。読めないという次元において。

しかし、それは読めるのです。すなわち、盲目になってしまった戦後の無教養な私達にとって、全部同じ「読めない」書になっているだけで、明治生まれの、たとえば与謝野晶子や夏目漱石にとっては、あるいはその時代の「普通の人」にとっても、「読める」ものは読める。「読めない」書なんてものは存在さえしないわkです。

なのに、今はそれが「読めない」というのが「偉い」あるいは「かっこいい」となっているわけで、ここに倒錯があるんじゃないかな、と思うわけです。

でもねえ、しかし「読めてしまう」と小学校のお習字とか大人世界のビジネス「美文字」とか、ラーメン屋のメニューみたいな「根性文字」になっちゃうと。

あるいはまあ、大河ドラマのタイトル文字になっちゃうと。個性出しにくいと。

現代美術としてのアート書道は、どうも、しかしそのへんの微妙な矛盾とか滑稽さを全部避けて、「読めない」ところに全員避難している。令和時代のいわゆる「前衛書道」も(ちっとも前衛じゃないのだけど)、「読めない」とカッコイイ、というところに避難している。

「読めて」カッコイイ、というところに、先人はいます。須田剋太と棟方志功。他にもいるかもしれません。

前置きが長くなりました。

審査員 タグチ、田中

さて、そういう背景がありつつ、うどよしさんの企画の審査に加わりました。

20点くらいある書、審査ということで拝見して、驚きました。

9割が読めない。読めるように、書いてない。

もうこの企画の趣旨、完全無視。

無視。

無視。

みなさん、本当に読める書と思って出してます????

ゲキオコ。(ま、本当に怒っているわけじゃないけど、さ)

ということで、今回はいつも出している「奨励賞」も「優秀賞」も一切なし、という結論を出しました。(ゲキオコ表現)

なんだかねえ、みなさん、嫌なこと言うやつだな、と思ったのではないか、と思います。

もう、書道やめちゃう人もいるかも知れない。

書道って、アート業界にあいた落とし穴みたいなもんかもしれない。伝統という落とし穴。伝統落とし穴はもうひとつあって、日本画。

両方とも、素晴らしい蓄積とひらめきのあるジャンルなのだけど、令和アーティストにとっては、鬼門。もしかしたら、現代美術ないし現代アートという言葉さえ、そうかもしれない。だって現代アートも権威化しちゃってるもん。

どうやったら、アートの持っている蓄積に素直になって、なおかつステレオタイプにはまらないか。それだけ、考えてほしいのだけど。

映画をみてほしい。あるいは、音楽。同じなんです。まったく。自由に、人の心に刺さるもの。映画は作るのに普通一億くらいかかるけど、ま、シナリオ書くだけなら時間があればかけますな。アートは、ま、一応あまりお金がかからない。書道はもっとも安上がり。墨とか紙にこったところで一億はしませんな。

現代アートとしての書、ごく簡単に取り組める方法はないか。

みなさん、よく考えてみませんか?

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