「福富太郎の眼」展を見てきた(改)
2021/06/21
東京ステーションギャラリーで開催中の「福富太郎の眼」展を見てきた。
たまさか閉館間際に行ったこともあり、一気に駆け抜けるように見たので、十分な鑑賞とは言えない。明日にでも時間を作ってもう一度行きたい。
だが短い時間でも十分わかったことがある。それは福富太郎コレクションの凄みだ。これは美人画の、そして日本近代美術の凄みといってもよい。
福富太郎と僕の繋がりについては、前々回の投稿
ですでに述べた。そして15年ほど前に福富さんに取材したときの記録は
https://www.syukado.jp/interview/vol002/
にも載せている。
その時に福富さんが言っていたことを覚えている。コレクションっていったってさ、買ったら倉庫に入れてるばっかりで、見るのは自分だって時々コレクション展やったときくらいだよ、おかしな趣味といえば趣味だよね、そんなことをおっしゃっていた。あの人は本当に飾り気がない人だったので、キャバレーハリウッドのまったく華美でない事務室(会社名は南海興行とかそんな名前だった)で靴を履いたまま足を投げ出して喋っていた。
今回に限らず、福富コレクションは実は何度も展示されている。しかし今回ほど大規模なものはなかった。この展覧会を一番見たかったのは福富さん本人だったろうと思う。その意味では死後に初めて実現したもので、ちょっと残念でもあるが、多分ご本人は「まあ、そんなもんだよね。まあやってくれただけマシだから、地上にさ、人間にでも変装して見に行くよ」と天上から言っていることだろう。もしかしたら2,3度来て喜んでいるかもしれない。
ただ、このコレクションは、展示の方針で、まだ如何様にも展開できると思う。例えば、福富さん本人の文章や本など、人柄をクローズアップしたり、ちょっとしたアレンジで、また見え方も変わるだろう。これからも、時々に展示があるといいと思う。展覧会図録を見ると、福富さんのコレクションもさることながら、絵の見方、惚れ込み方、考え方が、「権威」とか「価格」などに左右されやすい現代人に非常に参考になるのではないかと思われるからである。
さて、展示の話をする。やはり鏑木清方の名品が目立つ。清方は青年期から晩年まで、少しずつ作風が変化するが、ここぞ、というドラマティックな作品は、年代問わず福富さんが持っている、という印象である。
ほんの一例だが、上記の図録から採った鳥居言人は、浮世絵も商う我々としてはよく知っていて当たり前の画家だが、一般にはなじみが薄い。だが、完璧な線と描写力のある画家である。この辺なら福富さんはよく知っているはずで、流石にいいものをお持ちである。
福富コレクションのもう一つの顔になっている清方のこの人魚図は、作家本人は失敗だと考えているらしいが、我々も福富さんもこれが失敗とは思っていない。むしろ日本画が限界を飛び越えて西洋の物語を描く力を象徴する力作である。
その他、富岡永洗、水野年方、島崎柳塢、鰭崎英朋や、僕も名前も知らない画家の名品もチラホラ。実力のある作品を見逃さなかった福富さんの眼がわかる。画商の側も、大抵の権威主義の客が見向きもしないが自分の惚れ込んだ絵をわかってくれる数少ない客の一人として有り難かったに違いない。父や父の弟子筋たちも同じ思いで作品を持っていっただろう。もし父が生きていたら、これは自分が入れた作品だとかなんとか自慢をしたものもあるのかもしれないが、今となってはわからない。
チラシのキャッチになっている北野恒富の道行きの図はいかにも心中物という劇場型作品で、なんだか溝口健二監督の映画「近松物語」を彷彿とさせる作品だ。画商も福富さんしかこういう心中物を買う人はいない筈だから余裕で値段交渉した、と福富さんは文章に残している。そのへんの食えないところが福富さんらしいところでもある。
ともかく、ちょっと無名とも言える美人画家から超有名画家まで、ここぞという作品は誰にでもあるが、その肝要な作品は福富さんが全てさらっている、そういう印象である。
最近にわかに注目を集めている花鳥画で有名な渡辺省亭と省亭の師匠である菊池容斎などの画家たちは「塩谷高貞妻浴後図」という鏡の前で女房が裸になる構図を繰り返し描いている。福富さんはこの構図が好きなようで著作に書き残している。
仄暗い店内で、スルスルと軸がほどけて輝くばかりに白い裸身が現れたときは、ドキリと心が揺れた。真っ黒な髪には、さらに艷やかな濃墨が重ねられ、漆のような光沢を放っている。
(「絵を蒐める」より)
梶田半古は小林古径の先生だが、今は随分忘れられてしまっている。人物画の上手さ、洒脱さはすごいのに誰も顧みないのは情けないのだが、この梶田半古の良さを教えてくれたのは福富さんだ。僕も個人的に大事にしているし、そのあたりを理解できるお客さんを探している。
この展覧会には終始、監修した山下裕二先生の言葉がキャプションでついていて、それがこの展示の「骨」となっている。このへんの技は先生ならではのものだが、たしかそのなかに、権威に関係なく自分の眼で選んだコレクションだが、実に美術史的に筋が通っている、というのがあったと思う。
そのとおりなのである。福富さんは、自分の目で選んだと言っても、美術史と関係なく闇雲にヤマカンだけで買ったのではない。実によく勉強して買い集めているのである。なので、コレクションの筋はきちっと通っている。つまり眺めるだけで日本美術史の勉強になる。無名の画家のものを求めているといっても、本当の無名とは違う。美術史的関係性と、図柄の確かさがある。
一方、美人画に留まらず、洋画のコレクションもすごい。中村不折とか村山槐多など数多くの佳品が光る。ちなみに中村不折・村山槐多はふたりとも油彩画は超入手困難銘柄である。(近頃あった村山槐多展は出所不明のものが多いのでご注意のほど)
そのなかでも、戦争画は福富コレクションの核を作っている。太平洋戦争を含む大東亜戦争の始まりの頃に生まれた福富さんにとって、戦争画は「自分の時代」のコレクションである。
戦争礼賛の気持ちは毛頭ない、と福富さんは語るが、一方で、戦後腫れ物に触るように忌避された戦争画の散逸、廃棄を恐れて後世につなく使命感で福富さんは戦争画を集めたという。僕のお客さんで戦争画が好きな人は少しいるが、皆そういえば戦争を経験した人ばかりだ。日本の戦争画は描かれたときは戦意高揚のものが多かったが、終わってみれば「敗戦」の影をひきずってしまう。だが、そこには画家たちの高揚や苦悩がリアルに感じられて興味深い。展示されているよりも、もっと沢山たくさんあった筈だが、売ってしまっているのか展示されていないのか、案外少なかったのか、よくわからない。
コレクターは2種類いるという。高く買ったことを自慢する人と、よいものを安く買ったことを自慢する人。福富さんは後者だと山下先生は書く。ちょっと僕の立場だと複雑だ。よいものを高く買ってください。。。と思うがまあよいとしよう。
ここで最後に触れておきたいのはやはり福富さんの文章の豊かさである。福富さんはコレクションの本も書いているが、その他雑文の名手でもある。どんなことでも探求せずにはいられない、彼の自由闊達な精神世界を文章を通じても味わってほしい。
金のために身を売る女でも、毒婦というのか多情でふしだらな女でも私はいっこうに構わない。スッピンのやつれた面差しで、時折咳き込んだりする女なら、なお堪らない。恋愛対象というのではないけれど、そういう女性にこそ、無性に心惹かれるのだ。
健康でピチピチしてはいても、薄っぺらで存在感のない若い娘に、女を感じろというほうが無理だ。そこへいくと秦テルヲの描く女性像には、どっしりとした女の重みがひしひしと感じられるのである。
「描かれた女の謎」
この理想の女像が福富美人画の根底をなすもののように思われる。人に、作品に人生を感じたい。肉体と精神の重みを感じたい。現実にも様々な苦労を重ねて成功した福富さんならではの人生観がその好みにも現れているように思われる。何事につけ表面的で薄っぺらい現代社会では、こうした感受性が育まれることはないのかもしれない。
福富さんのように、文章とコレクションで生き様そのものを社会へ残した人は他にまだ知らない。けれども、福富さんを超える福富さんとでもいいますか、大きな野心と繊細な心と探究心を持つコレクターが、これからもどんどん現れることを期待したい、と思っている今日このごろです。
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