奇想・快想に想うこと
明日からの展覧会について、オフィシャルなご案内は先程の投稿に尽くされていると思いますので、ちょっとここで補足的にお話してみたいと思います。
私どもでは、独自銘柄として「美人画」を推して参りました。映画への敬意、コレクター福富太郎さんへの敬意、そして同世代として出会った池永康晟さんへの共感、そして何より、身を削って素晴らしい作品群を残した、明治・大正・昭和への美人画家へのリスペクトを商売に生かした発想ではございました。
ですが。
なにか今の日本の美術業界では「美しいこと」「わかりやすいこと」だけが優先されているような気も致します。
絵画表現、あるいは美術表現で現代求められていることは、当然ですが、たんに「美しい」ということではありません。そうではなくて、「絵画」にしかできないこと、「美術=アート」にしかできないことを求めていく、という事ではないかと思います。
「見えたこと」を表象する、という事でいえば、19世紀に発明され、20世紀に定着した「写真」そして「映画」というものが、もっとも手軽かつ高度な表現が、誰にでもできます。
「考えること」までもが、AIに象徴されるコンピューターに置き換えられるようになったいま、「人にしかできないこと」を人がする、ということが何より、大事な時代になってきました。
「絵画表現」は、幼いころから、誰でもする、あなたも、私もする表現ですが、絵画さえもAIが作れる時代に、それでも「人間だけ」ができることを追求することが絵画表現の必須条件ともいえるでしょう。
それが、戦後美術の主役が「風景」「人物」から「抽象」「コンセプチュアル」に変化してきた最大の理由だと思います。マーケットプライスの変遷は、時代の必然が招いたことでもあります。
ですが、本当は、写真の登場を待たずとも、あるいは、現代という時代を待たずとも、同じことなのです。
すなわち、人間の想像力、発想の意外さ、そして何かに憧れる気持ち、すべての創造、裏切り、破壊、そういうものが溢れていなければ、実は、現代に限らず、江戸時代でも、「創造」たりえない、というのが僕の理解です。
そのことは「美人画」「写実画」にも勿論言えることなのですが、私どもではアートフェア東京においてはこの数年は「美人」に的を絞った展示をしてきました。今年は、その予定調和を壊して、よりいっそう、人間にしかできない、あるいはその人にしかできない表現を追求してもらいました。
マーケットでは、「もの」「具体」派、そしてストリートアート、ポップアート、あるいはコンセプチュアルアートの流れが席巻しています。ですが、私ども画廊の現場では、そうしたものに加えて、今の流れ自体も疑い、自らの世界を掘り下げてみたり、あるいは歴史をもう一度たどり直してみたり、さまざまな試みがなされるべきではないでしょうか。
あらたな「異物」、しかしどこか親しみの有る、作品群。実は今回参加する画家はいずれも広大なアジアの絵画史に少なからぬ敬意をもつ作家が集まりました。
コロナウイルスが世の話題のすべてを奪っていますが、最近わかってきたことは、日本は諸外国に比べて、ウイルスを抑え込む力があるということです。理由はまだ定かでありません。安倍政権の政策が良かったのかもしれません。あるいは日本人の衛生観念がすぐれているのかもしれません。あるいは単に運がよろしかったのか。
しかしいえることは、日本人は総体として意外な力を秘めているということです。しかし実際のところ、実感がない。
日本の本当の力とは、何なのか。私達は、もういちど捉え直して見るべきではないでしょうか。どこか自信がなさげで、強く言われると、言い返せない、どこか空虚で、はかない幸せによりかかる日本。しかしこの空っぽに見える国は、世界の矛盾や苦しみを解決する潜在力を秘めていることが、このコロナウイルス騒ぎでも証明されるプロセスに有るような気も致します。
日本のアートのちからを信じてみたい。
今回は中国の作家も入りますが、彼女も日本にあこがれて日本にやってきた中国の女性です。日本の画廊であるからには、日本という磁場だからこそできる表現を追求したい。今回の展示が、多くの人に響く、伝わるものになれば、何よりです。
https://www.syukado.jp/exhibition/kiso-kaiso/
展覧会情報会期2020年3月19日(木)〜29日(日)会場ぎゃらりい秋華洞 アクセス時間11:00~17:00 会期中無休
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