池永康晟画集刊行記念展 ~少女百遍の鬱憂~
2019/07/27
みなさん、おはようございます。
美術で日本を元気にする、美術伝道師・田中千秋です。
弊社が生きている画家を扱った原点でもあり、「美人画」押しという秋華洞ブランドの起点でもあり、私どもでもっとも大事にしている画家。それが池永康晟です。
彼は、この二年ほど、「少女」を描く、ということに取り組んできました。
「コマーシャル・フォト」という写真誌で知られる玄光社さんの企画から始まったこの流れは、池永にとって必ずしも楽なことではなかったようです。
かつて「女性は22歳」説を唱えた池永。女性性と処女性の端境期を少し超えた女の魅力をこの言葉で表現したのだと思いますが、女という生き物の魅力をどう捉えて、どう描くのか。それは極めて個人的なものをパブリックなものとして世に押し出すという困難を伴うものです。
今回の企画は10代のタレントさんたちの魅力を引き出すことが肝。私は相米慎二という少年少女映画をたくさん撮影した監督 (永瀬正敏、工藤夕貴、薬師丸ひろ子を実質的に世に送り出した僕の最も敬愛する映画監督です) の例を引き合いにして、その方法論を示唆してみたりしましたが、池永は、おそらく自分自身の答えを、ずっと探し続けた日々だったと思います。
この格闘の結果を公開します。簡単ではなかったと思うけれども、より豊かな女性絵の世界が展開する予兆としての、この企画。
池永さんの「美人画」が他の美人画と違うのは、一人ひとりのモデルに対する愛情と敬意が溢れているところだと思います。美人画、を歴史から見て比較するなら、たとえば歌麿の作品群はもう少し対象を突き放しているし、夢二は好きな女を描いたが作品は少し抽象化されている。一方で、女性たちが描く女性画は自分自身を吐き出す表現である側面が強くなる。男が愛する、ある女を描く、という原点から離れないところが池永さんの強さ。だから題名から女性の固有名詞が消えることはありません。
敬意は時に幻想に変わり、恋と同じように対象を理想に押し上げる作用があるけれど、時にそれは作品も対象も輝かせる。一つの絵が一つの恋。大正ロマンぽくて古く感じる人もあるかもしれないけれど、そこには一つの真実があります。
ところで、 池永さんと僕はまったく同い年です。誕生日が隣。1965年10月生まれ。実は、それぞれに年齢というものを意識せざるを得ない、体の状態もあります。健康というものを意識しないといけない様々なことに悩まされています。
色々、身体が衰えて来ても、自分に与えられた時間を大事に生きていく。村山槐多は22歳までにあれだけの仕事をしました。彼に比べたら私達は無限の時間を与えられたに等しい。何があっても、揺れず腐らずに仕事をしていきます。
池永の感受性と少女の眩しさがクロスする、この機会、玄光社さんが出版する池永康晟少女画集「~少女百遍の鬱憂~」の初お見目えになるこの展覧会、ぜひおいでくださいませ。書店さんより先に先行販売させていただくとともに、原画の一部を販売いたします。
↑見てトクさんの情報です。ありがとうございます!
https://www.syukado.jp/exhibition/ikenaga_yasunari_2019/
↑弊社展覧会ページ
http://www.genkosha.co.jp/gmook/?p=19359
↑玄光社さんの紹介ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/4768312152
↑アマゾンの販売ページ