日本に「棄てられた」フジタを愛する私達 藤田没後50年展に際して(2)
フジタといえばあの乳白色の絵肌だ。
藤田嗣治は、自分独特の絵画世界を作るために、キャンバスな特殊な地塗りをして、それを塗り残すかたちで、西洋人の輝く素肌を表現した。その技法を決して他人に明かすことはなかったという。
絵の地肌が女の肌の表現でもあるという画家を、自分はもうひとり知っている。それは池永康晟だ。彼は麻布を染め上げて作るあの独特の肌色を見出すのにほとんどの青春の時間を費やしたと聞く。
フジタと池永、両者が地塗りイコール素肌の色、自分の最も美しい色とするならば、その色だけでも表現が可能ではないかとさえ思う。その色を見せるために女たちを描く。この言い方は画家の本意ではないだろうが、「絵」から「作者」を見るならば、そういうことだ。
いずれにしても、わたしには、フジタの決してひとに明かさなかった乳白色、池永の泣きながら10数年を要して作り上げた麻の肌色という「女」と「素材」への傾倒ぶりに、画家という生き物の執念のありようの付合を感じて面白く感じられる。
こんにちの抽象絵画的表現であれば、先程触れたように、素材の色をただ見せる、というアプローチもありうるだろう。
戦後美術は絵画そのものを解体して素材そのものに問題意識のありようを見つけようとした。日本の「もの派」や「具体」はその最右翼だし、現代に美術を志す者は、本当はその問題から離れることはできない。
だが近代前半の画家たちは、画材そのものに関しては素材のオリジナリティのこだわりはなかったようにも思われる。
油彩なら油絵の具とキャンバス、日本語なら膠と紙という組み合わせに疑いを抱く者は少なかっただろう。だが画家であることは、同時に自分は何を素材とするのがオリジナルと言えるのか、という問題意識はフジタにおいて「西洋にいる東洋人」という状況から導かれたわけだが、これはすぐれて現代的な問題にフジタが直面した、ともいえるだろう。
しかし表面的にはあくまでも美しい女性を描く、ということだ。
フジタはパリで女の素肌を描く、あの技法を開発したのち、三番目の妻マドレーヌを得た時代、ノリに乗ってヌード作品を描きまくる。その後税金に追われてなのか、世界旅行をするのだが、その時彼は乳白色の素肌をいっとき捨てて褐色の南米の肌や色あざやかな風俗を描く。日本への回帰と戦争画の洗礼を経て、日本の敗戦の喧騒を逃れるようにパリに戻るのだが、そのあとは、あの乳白色に戻るのだ。
正直申し上げて、乳白色でない彼の油彩はいまひとつ彼らしくないと感じてしまう。あの乳白色の肌の国こそが彼の生きる世界だったのではないか。つまり、彼は彼の作ったキャンバスの色、乳白色の色に誘われてフランスの国籍をとったのだと、ちょっと戯言を言いたくなる。
あのおかっぱ頭をサッパリ切って、あのドロドロの戦争絵画を描いた彼は、日本人となろうと頑張ったと思う。その健気さは心を打つ。
だが、もし彼の日本が戦争に勝ち、そのまま日本で戦勝に貢献した画家として、横山大観とフジタが二人ながら日本男児として讃えられる戦後が「もし」あったとしたら、フジタはあの女たちと猫に回帰することなく日本的な何かに拘泥する作家に転じていたかもしれない。画家の「軍神」として祀られたりしてね。それは想像するだに詰まらない世界だ。そうしたら、彼は埋もれて忘れさられた可能性さえある。
あのキャンバスを塗った乳白色を彼にきせるために、日本は戦争に負け、彼を裏切った。彼と日本はそういう運命だったのだ。その運命を導いたのは彼の地塗り、絵肌だったのである。絵肌というのは画家にとってそれくらい重要なものだったのではないか、と思う。
「絵肌」=「人肌」=作家性 問題は、フジタと池永という二人の素材を元に、時々考えさせるテーマなのである。
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