日本に「棄てられた」フジタを愛する私達 藤田没後50年展に際して(1)
2018/08/21
フジタは好きな作家だ。彼はその人生の屈託が人間的で、愛さずにはいられない物を持っているからだ。
その屈託は彼の性格に起因するとは言えない。むしろ日本に住むからにはどこかで誰もが抱えなければいけない「屈託」が一番濃縮されて彼の人生に降り掛かっている。
彼は生前繰り返し「日本を捨てたのではない、捨てられたのだ」と言っていたと君代夫人は言う。
それが真実だとすれば、私達はフジタを「捨てた」国に住んで、フジタを誉めそやしているという訳だ。
国際的な画家。エコール・ド・パリでモジリアーニやピカソに引けを取らぬ存在。
永遠の乳白色。
軒並み戦後美術の価格が下る中で、ひとり気を吐く画家。
だが、その彼を私達は「捨てた」のだ。
幾ばくかの屈託を抱かずに彼の仕事を見ることができるだろうか。あるいは彼の屈託を想像せずにおられようか。
フジタの屈託を代表するのは、皆さんご存知の通り、「戦争画」を巡る顛末だ。
おかっぱ頭と丸メガネ、耳にはイヤリングの自由なるボヘミアンのごとくパリに踊り出たフジタは、戦況が緊迫すると日本に帰ることになる。
そこでフジタから「藤田嗣治」に戻った画家は、いかにも健気に「日本国民」に準じようとする。
坊主頭に丸めて陸軍の要請に答えて戦争画に取り組む。『アッツ島玉砕』など、あたかも反戦画のように見える激烈な表現であるが、当時の発言を聴くと、どうも大真面目に戦意高揚に資することを意図していたようだ。それだけでなく、従軍画家の取りまとめもしていたらしい。
果たして当時の彼の本心がどうであったのかはわからない。フランスかぶれの西洋びいきと色眼鏡で見られるのを恐れて、人一倍、陸軍にサービスしたのか。あるいは国家の生き残りを賭けた大戦で、一命を投じようという本気の気概であったのか。
あえて戦後の意地悪な日本人の目から見れば、どちらであったかは判然としない。
だが私は思う。あの当時の日本人の多くが心の何処かで日本の勝利を信じてひとつになろうとしたように、藤田嗣治もその時「日本人」であろうとしたのだと。特に彼は陸軍軍医将官にもなった父の理解を得て絵描きになった身。恩返しの気持ちも人一倍あったであろう。
さて、しかし時局は彼に味方をしなかった。日本は1945年8月15日、敗戦を迎える。その後は仲間のはずの画家たちから戦争協力者として非難され、日本を離れる決断をする。
そして、君代夫人と共にフランスに戻り、国籍を変え、生涯日本に帰らなかった。「レオナール・フジタ」の傷の深さは想像に余りある。
未亡人となった君代夫人は展覧会にいささか協力的ではなく、日本での大規模展は彼女の死後、初めて可能になったという事情があると聞く。一般的には著作権についての夫人の考え方がネックになったと言われているようだが、「日本」への彼女の屈託もあったのではなかろうか。
戦後フジタを棄てた日本は、いまフジタを再び本当に受け入れたのだろうか。そして冥界でフジタと君代夫人は、日本を、再び受け入れているのだろうか。
誰よりも一生懸命私達の社会に尽くすものを裏切る、日和見的なズルさが、残念ながら私達の社会には、ある。多分、私にも、あなたにも、ある。
しかしそうであろうと、私達は日本を愛している。そういう「屈託」は、藤田の「屈託」と実は同じものではないか。だからなおのこそ、彼の作品世界を私達は共感を抱いて見てしまうのかもしれない。