銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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某番組について

   

例の「国宝」をめぐる議論が「白熱」しているとネットで散見されるが、本当に「白熱」しているのだろうか。おそらく美術界隈では当初から結論は出ている。結論は「論外」あるいは「笑止」であろう。

番組には見識有る商人や学者が多数出演している。よく知る人達も多い。なので私にもシガラミがあるのであまり余計なことは言えない。言えないが今回、一番の問題は「プレスリリース」で日経に国宝級登場、とうたったことは、マズイぜ、とあのテレビ局の広報担当と日経には指摘しておきたい。

日経は経済誌であり、美術に関する記事ももっとも専門性が高く、非常に信頼性が有る。そして美術もひとつの投資分野として重要であるから、そのジャンルの情報についても正確な裏とりが求められる。なのにしなかった。自らの系列のテレビ番組の「ノリ」に安易に乗ってしまった。そのことがもっとも問題だと思う。

あの番組の「見識」をそのまま信じる専門家はいない。あくまで「番組の見解」である、とはあの番組の表明どおりである。それ以上でもそれ以下でもない。

値段というものは生き物だから、どこかの番組で値段が高かろうが安かろうが、一喜一憂すべきでなく、ましてや司会に必ずコメディアンを配したお笑いバラエティの体裁をとって一種のエクスキューズの備えをしている形なのだから、「本気」のものではない、と見なされることで、美術売買にたずさわる人間はあの番組で何が言及されようと沈黙を守って来た。これからも守るであろう。

テレビ画面の向こうにあるものを云々(デンデンじゃなくウンヌン)するのは2つの意味で間違っている。それは、ブラウン管の向こうにあるものは正確なことは何もわからないということ、もうひとつはあくまで演出が入っているということである。なので、色々困ったもんだなあと思いながらも、番組外の商人は何も言わない。電話がかかってきた専門家の殆どが回答を拒んだはずだ。当然である。

しかしあの番組にも少し謹んでほしいことがもうひとつある。それは我々専門家が安易に用いてはいけない「国宝級」という言葉をセンセーショナルに用いることである。

 

これは値段の問題ではない。美術をどう見るか、国宝や重要文化財とはいかなる要件において称せられるものであるか、というのは美術を真剣に見ている世界では繊細な問題である。

 

よくひとは「国宝級」いという言葉を口にする。この言葉を簡単に口にするのは、ほとんど美術に関心の薄いひとだ。国宝や重文を実際に扱うことのある専門家はその「級」という言葉の空虚さを嫌というほど知っているから、口にする事はあまりない。あるいは重要文化財・国宝というものの切実さやあるいは儚さのようなものさえ心においている。なぜある種の美術が国家にとって切実に重要とされうるのか。その危うい文脈は極めて慎重に論じられるべきものである。

そうした世界に泥玉を投げられた形だ。

たとえば、漆塗り箱に金字で「国宝級」と書かれた箱がそこにあるとする。いうまでもなく、その中身は重要なものではない。日本美術の一級品は、そのような壮麗かつ脅しのようなものには入っていない。たいていはある種のつましさをたたえながら同時に確固たる自信に支えられた箱に入っている。だが残念ながら、多くの「偽物」あるいはその「箱」は美には何ら関心はないがカネには関心が大いにある、そういう一群の人々に向けて作られている。その「箱」が象徴する「国宝級」、それと同根の卑しさがあの表現に見え隠れする。

今回は幻の名家の箱に入っていた、ということがおそらく番組の関係者の心を色めき立たせたのだろう、たしかに期待される装いであろう。今回は策士、策に溺れるというかテレビちゃん、箱に溺れるということになろうか。しかしここで「国宝級」という言葉を安直に使ったことでこれが「バラエティ」であり、少なくとも論じるに足る経済番組ではない、ということが露呈してしまった。

あの番組の意義は大いにあると思うし、これからもよい啓蒙につとめてほしいけれども、これだけの影響力を持つものに育った以上、そこで放送されることがあくまで「番組の見解」にすぎないのなら、すぎない、ということを今一度確認していただきたい。日経にリリースを載せるなどというミスリードを猛省しなければ日経の明日はない。

それでなければ美術品を売買する一般の方に美術品というのは一種の危ない物件であるという誤解を与えてしまうことになるだろう。私は日経グループ内部でどれだけの危機感を持って今回の「事件」が総括されているのか、そこに危惧を覚える。

 

 

 

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