速水御舟と宇多田ヒカル、なにしろ御舟(ぎょしゅう)は重要だということについて。
日曜美術館、本日は速水御舟展(山種美術館2016 10/8-12/4)の特集であった。
あの45分で彼の画業を全部振り返るのは無理な話だし、技法や精神について詳しい説明があるのには感心した。
私は、速水御舟は近代以降の日本画壇から生まれた最も重要な画家だと思っている。多分、日本美術を扱う業者の多くが同意するのではないか。
その御舟の名品のほとんどが集まっているのが、山種美術館である。なので、しばしば開かれる彼のコレクションの「御開帳」が、山種に多くの人が足を運ぶ重要な理由になっている。
私が好きなのは重文指定である『炎舞』よりも、晩年の水墨の牡丹などであるけれども、今回は下に引用した若書きの『洛北修学院村』の美しさに改めて魅了されたし、『炎舞』が大震災後に描かれた意味と技術について触れられていて、とても興味深かった。彼の持つ繊細で明晰な個性がこの2つの作品で際立って感じられた。
さて、彼の作品世界でもっとも重要なことは、「型を持たない」ことであると思う。テレビで紹介されていたように、彼は<一定の型を持つことは一種の行き詰まりを意味する>、と述べていた。この言葉は戦後近代画壇と現代アート双方を背後から刺し貫く言葉ではないか。
御舟の画業を追っていると、なるほど、完成された型というものをおよそ持たないのが、彼の芸術の真骨頂であることがわかる。<炎舞>は<炎舞>だけであって、評価されたかたらといって似たようなものは描いていない。炎舞2、とか炎舞3とかは聞いたことが無い。20年の画業の、むろん、時期時期で同傾向のものは描いているが、完成を嫌うように、しばしば、画風を変化させる。なので、早世したにもかかわらず、彼の絵のイメージは一定ではない。「勝ちパターン」に縛られることのない、自由さ、勇敢さ。絵描きは本当はこうであらねばならぬのではないか、とも思う。
一方で、彼のモチーフには体験と観察が必ず込められていることも重要だと思う。修学院村は彼が若い頃暮らした風景を描いたものであるし、例の金屏風の「椿」も、炎舞の「炎」も、観察から生みだされたものであった。大観から穢い絵と罵られたという舞妓の絵も、彼が女そのものと向き合った結果であろう。
私のところでしばしば扱っているいわゆる美人画のうち、たとえば甲斐庄にしても清方にしても、彼らの面白いのは女遊び(清方)をしたり女に「なる」遊びをしたり(これは甲斐庄)しながら、自分がリアリティを持った実態としての「女」を描こうとしているところに妙味が有る。画室だけで考えた「芸術」には自ずから限界があるのは自明だが、残念ながらそういう作品の多い作家も少なくない。
我々が小説を読んで面白いのも、映画を見ても面白いのも、そこにはおそらくはドキュメンタリーではどうしても行き着くことのできない「リアル」に突き当たっているからこそ、面白いと感じるのだと思う。別の言葉で言えば、「取材」しているということだ。
23才の御舟が描いた「洛北」には、彼が当時毎日見たであろう風景が、遠景と近景の色のバランスもさることながら、「心の温度」とでも呼ぶべきひんやりとした蒼い森と民家が放つまばゆく温かい黄色が、田園のふる里で暮らす心の情景になっている。風景の観察と、そこに住む自分の心の観察がみごとに一体となり溶け合っている。こういう現代人の心も見事に捉える絵の深みというものは、年齢とは関係ないことが分かる。
突然では有るが、若い画家に提案したいのは、書を捨てよ町へ出よう(寺山修司)、ならぬ、スマホを捨てよ旅に出よう、である。いやスマホ捨てなくてもいいけどさ。ゴリゴリゴリゴリ女とか男とか風景とか異国とか山とか都会とかにぶつかって感じて画室と美術館以外のものと出会ってモチーフと技術目標を磨いて欲しいということである。映画で言えば西川美和とか河瀨直美とかイーストウッドを真似して欲しい、と言っても伝わらないか。御舟は超えられぬ。彼自身も何かを超えられない苦しみの中で死んだであろう。それでいいのだ。でも超えようとしろよ。
「勝てぬ戦に息切らし あなたに身を焦がした日々」と宇多田ヒカルも唄っている。
速水御舟は明治維新後の最高の日本美術家である。もう一度、言っておきたい。彼の絵と精神を観察することは、なので、重要である。
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