銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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美人画考展によせて、甲斐庄楠音のため息

      2016/07/09

ぎゃらりい秋華洞では、5/22 金曜日から、「美人画考」展が開かれる。主として甲斐庄楠音作品を展示し、美人画の源流であるところの、歌麿、鳥文斎栄之の江戸時代のオリジナル作品木版画、深水、清方、松園など美人画近代の黄金期の作品、そして池永康晟の作品を展示する。

甲斐庄楠音は明治二十七年に生まれ、帝展、国画会などに参加しながら、あの大正デカタンの時代に、それまでの「美しい」美人画とは一線を画す作品を発表するが、従来の画壇との葛藤に直面し、やがて映画の時代考証家としての役割に転じる。これが昭和の戦時期から戦後の時代。溝口健二という日本映画界の生んだ最も偉大な監督の作品に参加する。老齢に達する昭和三十二年、絵の世界に復帰して発表を再開する。

彼の絵の特徴は男が描いたにもかかわらず女の内面を一度くぐり抜けたような表現になっていることだろう。彼の女装した写真はよく知られている。ひとは普通男性か女性、どちらかの性の人生しか選べないが、ひとの想像力は女性の内面をくぐりぬけ、そしてまた男の内面をくぐり抜けることが可能である。彼の作品が土田麦僊に「穢い絵」というレッテルを貼られて展示を拒否されたことはよく知られているが、時代の変わり目でそうした否定の洗礼を受けたことは、実は勲章でもあるし、彼の挫折でもあったのだろう、彼の作品は視座があちこちに移動する。女を「綺麗」に描いてみたり、汚辱をテーマにしてみたり、女目線であったり、男性目線であったり。

溝口の映画に参加した彼の作品を展示することは、そもそも映画の世界に憧憬を持つ画廊主としては嬉しいことである。甲斐庄の挫折と変容は、ひとりの男の人生としては悔しさと悦びが相半ばするものであっただろう。彼の「女性」を描きたいという欲望は欲望の大正としての女を描くよりも、自分自身を描く作業に近かったであろうと思われるが、一方で映画の仕事に転じられたように一種の現実家でもあっただろう彼の心のなかで20代から80代で没する画業の中で、どのような変遷をたどったのか、興味深い。

今回展示するのは主として80代、晩年の作品であるが、「穢く」「綺麗に」描いた彼の画業のさりげない結晶となるような作品である。

オンナだオトコだ、ということに一喜一憂するのは他のいきものから見たら滑稽なことでもあるだろう。我々がザリガニやトンボの性の感情移入できないのと同様、醒めたあの世から見ればウタカタの夢のように見えることかも知れない。しかし人として生を受けたものは一人残らず「異性」もう少し広げれば「性」をもつ同一種のなかに、あこがれとやすらぎを切実に見いだすのである。

私たちの画廊では、江戸時代の「女達」、明治大正昭和の「女達」、そして平成の若手が描く「女達」をひとしく紹介している。甲斐庄や同じ時代の絵描き達は伝統と近代、形式と内面の葛藤のなかで、一種の神がかった描写や様式を生んだ。もちろんほぼ同じ時代に、深水清方松園、あるいは夢二などが活躍したことも勿論重要である。今の画家達は伝統もポストモダンも何もかも溶解してしまったかのような二十一世紀のこの世の中で、あたらしい作品をまた生み出している。彼らの葛藤は甲斐庄の時代とは違い、かたく強い批評空間がはなから失われた世界で、自分なりの緊張感を自ら生み出していかなければ絵として成立しない、この自由で厳しい状況とのたたかいであろう。

ここに現れる様々な作品は単に「絵」に過ぎないけれども、その人生の切実さも詰め込まれている。時代背景を想像しながら、楽しんでもらいたい、です。

以下展覧会の紹介文

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銀座の画廊「秋華洞」では、これまでにも浮世絵から現代作家の作品まで、時代を問わず美人画の展覧会を開催してきました。今回は甲斐庄楠音のコレクションを中心に展示します。「美人画」というジャンルは江戸時代の歌麿の大首絵くらいから始まった日本美術独得の一大ジャンルですが、ある種のブロマイド的な役割から始まって、明治、大正、昭和と時代を下るに従って、しだいに女の自我、内面に踏み込むような表現に変化していきます。いつの時代も男を狂わせ、女も酔わせる「美人」画の古今あれこれをお見せ致します。
会期:5月22日(金)~6月2日(火) 場所:ぎゃらりい秋華洞
入場無料・展示販売いたします。

http://syukado.jp/feature/2015/05/bijingako.html

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