菱田春草展の感想:愛と犠牲=美のサクリファイス
春草展を見た。 岡本東子の展覧会最中であるので駆け足で見たものだが、それでもこの作家の唯一無二の力が伝わってきた。
10月の竹橋、国立近代美術館。快晴。
春草には思い入れがある。そもそも秋華洞、という我々の屋号は、春草という雅号のもじりでもある。春を秋、草を花=華に転じて名付けたのだ。春草の若い時の号が「秋江」であった事実も、今回の展示ではじめて確認して勝手に因縁を感じたりした。
院展と東京芸大、そして日本画、というジャンルそのものの父親が岡倉天心だとすれば、菱田春草はなんであろう、その寵愛のゆえに美神への生け贄に捧げられた次男、というところだろうか。 あるいは基督教に例えれば、天心が父たる神、春草が十字架に貼り付けられた聖なる子、キリストとでもいえるだろうか。
作品「落葉」、近美のHPからの引用。
会場では映画 『天心』 を上映していた。五浦時代の春草らを「実感」するのによい映画である。
映画『天心』 http://eiga-tenshin.com/
彼のことを宗教の比喩を用いたくなるのには理由がある。ひとつにはその緊密な画面から立ちのぼってくる聖性である。 今回の展示では驚くほど若い時の優品が蒐められていたが、その前を通り過ぎるとき、苦しく胸が締め付けられるような聖なる気配にひとは落涙を堪えなければならない。絵を描くという行為そのものへの深い信頼と献身が彼の短い画業を支えている。絵、というもの、芸術というものが本当は備えていなければいけない属性を思い出させてくれる。それは聖なる力である。祈りの果てにある光。今の美術がどこかに置きわすれたものでもある。
いわゆる朦朧体という描き方をめぐる当時の不毛な議論や五浦での貧困状態などという彼の人生上に起きた様々なさざ波大波を超えて、絵の力そのものが竹橋のウインドウをそぞろ歩く人々に伝わる。特に若い時の作品に深いものがあると思う。
まだ習作と言ってもいいはずの、18,19のデビュー作から数年の20歳前後の作品群の風格は、彼が現代の美術界に出現すれば画家の100人や200人は吹き飛んでしまうだろう、という早熟ぶりである。早熟はこの時代彼に限ったことではないが、大きな飛躍への予兆のようなものが彼の若書きの画面に強い緊張感を与えている。
だが彼の人生はあまりにも短い。年表を改めて見直してみると、五浦に大観らと移住した31歳からわずか2,3年で腎臓と眼病を患って東京に戻り、その二年のちには病没してしまうのである。
天心、という映画を見ると、ボストン美術館などから多額の給与をもらい豊かな生活を享受していた天心が、困窮して明日の米にも困るような春草らの経済状態を放っておきしかも絵をろくに褒めもしない、というエピソードが出てくる。のちに腎臓病と眼病を患い、ほどなくして亡くなってしまうのはこの時代の栄養不足が原因とも言われている。この辺りの事情が真実かどうかは美術史家に委ねるが、もしそうであれば天心は春草の命そのものを画布に捧げさせた、恐ろしき確信犯であり、美への執着以外脇目もふらぬ鬼神である。しかし春草は処女のごとき従順さで五浦時代を共にした四人のうち、もっともその指導に従った。 大観は生き延びて戦後の大いなる名声を得たが、春草はやがてくる自作への圧倒的評価は知らずして亡くなっただろう。しかし春草の価値はその大観が最もわかっていたと思われる。
会場では、春草グッズを買い求める人の行列ができていた。
落葉、という六曲一双屏風の前に佇むとき、ひとはひとが命の限りをぶつけて描く、という行為がこの世に存在する、という事を知る。春草の肉と骨を砕いてすりこんだような画面に彼の情熱がありありと伝わるが、それでいて飽くまでも静かな、限りない静寂が画面を包む。 落葉、の屏風はそして同時に、大観、武山、観山の未来もその黄金の光で照らしだしたであろう。春草の作品と死がひらいたその道を大観らは威風堂々進んだのである。
もし美の閻魔大王というものがいて、死後の大観に向かってこう問うたらどうだろう。春草の作品全てとお前の作品全て、どちらかを火にくべてやろう、どうする、そしたら大観はニッコリ笑っていうだろう、それは俺の作品を燃してくれ、あいつがいなけりゃ俺はいない。あいつだけ生きていたっていいくらいだ、否その方がいいくらいだ、天心先生、そして神様、どうしてあいつをあの苦しい明治の時代に殺した、あいつが本当は生き延びるべきだったのだ。
しかし春草は36で死んだ。それでも途方も無い数の優品を残した。展覧会会場で出品されているよりもはるかに沢山の数の作品を我々美術商は目撃している。いったいあの短い人生の間に、どうやって描いたのだろう。人生は生き延びた年数だけで価値が決まるものでないことを証明した画家の、あのあどけない、しかし気の強い面影は永遠となった。
その作品は今も語り続ける。日本の美よ、立ち止まるな、前を見て歩け。
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