銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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大島渚、死す。

   

大島渚が死んだ。
学生の時、あの「朝まで生テレビ」の観客の「バイト」に行ったことがある。
あの頃の「朝生」は、必ず、野坂昭如と大島渚が出ていた。自分が行ったときは何故か黒木香が来ていて乳首の見えるシースルーの衣装、CMの時間に野坂がいたくはしゃいでいたような記憶がある。
テレビに出る、というのは非常にリスクの高い事である。声やしゃべり方で、人間味が伝えられる、というメリットはあるが、反対に権威の皮がひっぺがされて、情けないような弱点も丸見えになる恐れがある。NHKなどに出演して澄ましてしゃべっている分にはどうということはないが、民放で、田原総一朗や島田紳助にいじられた日には、文化人も道化になる。
当時アサナマにしょっちゅう出演していた大島渚や野坂に対しては、そういうわけで、学生心に、すこし軽く見ている部分もあったかもしれない。タレント文化人に対する蔑視である。
しかし。
そういう自分が道化になるリスクを冒しても時代の議論に自分を投げ込み、魂をさらして生きるいきかたには、オオシマの無垢な正直さが現れていたとも思う。
近頃の「TVタックル」でヘラヘラと楽屋オチのような話で茶を濁す民主党のタレント議員のような人々には共感しないし、するべきでもないと思うが、彼の無垢さは時代を浄化する役割があったと思う。
映画監督としてのオオシマが自分にとって最高であったかといえば、正直そうでもない。マックスモナムールや愛のコリーダ、遺作の「御法度」など、アブノーマルな性愛が時代を突き破る「反逆児」としてのセンスは面白かったけど、情動を揺り動かす映画的な緊張感はむしろ控えめすぎたようにも思う。
 しかし、それでも「戦場のメリークリスマス」は感動的であった。あの音楽、あのストーリーは、たまに見直すと不思議な狂おしい気持ちになる。しかもこの作品はその後の世界映画史を書き換えるだけの構想力と爆発力があった。この作品のおかげで、今は映画監督であるところの北野武、という男は生まれたのだろうし、俳優であり映画音楽家としての坂本龍一が誕生した。ビートたけしとデビッドボゥイが同じ映画の画面で拮抗しているあの夢のような時間は、「未知との遭遇」でトリュフォーと宇宙人が出会うよりもワクワクする瞬間だったのではなかろうか。
 テレビでは、なんだかやたら怒っていた大島渚は、「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」の審査員でもあった。私は学生映画を一生懸命やっていたので、ここに挑戦してプロになる夢を見ていた。残念ながら、自分は日の目を見ることはなかったが、大島が当時の自主映画を作る若者にとっては、励みになる事であったと思う。
彼の審査には、才能と出会いたい、若い感受性と出会いたいという祈りのようなものがあったと思う。そもそも、八ミリ映画の大半は退屈である。他人の作った映画をえんえん見ることはかなりの苦痛といってもよい。しかし、その退屈に耐えて、大島は審査員を演じていた。そうとうな忍耐と情熱がなければ、八ミリ映画の審査員にはなれないと思う。
 当時「ヒュルル..」という作品があった。これは今はプロになっている橋口亮輔が学生時代に録った作品だ。当時三分二十秒しか撮影できない八ミリ映画カートリッジだったが、たしかコダックが特別に長いロールをセットできるようなシステムを発売していて、それで十五分くらいの長回しの場面があった(ような気がする)。若い男が女性を部屋に招き入れて、ベッドに入り、なにかそういう雰囲気になり、しかし「・・ゴメン」と言って場面が終わる。それは勿論不能を示唆していたのだが、当時あまりにウブだった自分は、そのことがそのことを意味するという事があまりよくわからず、しかし何か非常に赤裸々なものを目撃してしまった、という思いが深くあったのだが、当時大島渚が「こういう青春の傷を描くのは、青春の中にいるものしかできない奇跡だ」と言っていたような気がする。ただし、今ネットで検索したら「優れた映画監督が一生に一度しか撮れない作品」と言っていたそうだ。まあ記憶はいい加減な物だが、あの場面にプロがそこまでの意味を見いだすのか、と何か不思議な感慨があった。たしかに八ミリで撮ったあの「長回し」には、今のアダルトビデオを百本並べても、商業映画のラブシーンを百点抜粋しても出せない、生の人間の営みが奇跡のように赤裸々に映し出されていた。ちなみに、たしかあのシーンを撮影したのは、のちに自分が「灰かぶり姫物語」という映画でちょこっと関わることになる斎藤久志という人であった。 
 インタビューによると、大島渚は映画撮影のことなど、何も知らないままに松竹に就職して監督になったそうだ。監督を夢見つつも別の道を歩んだ自分から見るとなんだか人生は皮肉だと思うけれども、職業は時代が要請するものでもあるので、あまり拘泥しても仕方が無い。ただ、彼のように自分の怒り、悲しみを、喜びを隠さず表現する生き方が自分は好きである。権威によらず、権威にならない。自分でいること、オープンであること。
亡くなった父も、その意味では、飾らない、オープンな人であった。自分が美術商として生き延びているのは、その父を慕って、あるいはかわいがってくれた人間関係のおかげであることを深く認識している。美術の本質は、畢竟人間性の深みを見つめることである。この世界で、生き延びること。共感を深めること。心を開いていくこと。
大島渚が象徴していた時代が終わるのはさびしいが、別の形で、私たちの世代が受け継いでいきたい。
 

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