銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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橋下市長と小林よしのりのバトルで思う日本政治の今

   

ところで、日本はいったいどこへ行くのであろうか。税収確保、あるいは社会保障の財源の為に消費税アップが必須という理屈で野田総理が「政治生命」をかけたという法案が衆院を通過したけれども、みんなの党の江田氏などが主張するように、与党の政治家      は、増税するとかえって歳入が減ってしまう、という過去の経験から学べない財務省=野田のストーリーにただひたすら追従している。
・下記は江田氏のブログで、増税の趣旨が悪すぎることの指摘
・ここで片山善博もと鳥取県知事が閣僚として野田総理を告発している記事も興味深い。
で、橋下徹大阪市長と小林よしのりのバトルについて。
今週のSAPIO誌上の小林の「ゴーセン」 「橋下さまに捧げる言葉」がメチャクチャ面白い。笑える。
小学館「SAPIO」7/18日号
小林しのりのゴーセン道場での紹介記事
 「参議院をなくす」「首相公選制」「脱原発」など、現状の停滞した政治にはとてもインパクトと具体性を持った意見を主張する橋下氏がとても面白いけれども、一方で、このところ起きている橋下と小林よしのりの「小競り合い」も興味深い。僕はこのふたりは今までの既得権益やタブーや「言わずもがな」みたいな事をほじくり返して「王様は裸だ!」と言ってくれる意味では日常に埋没する思考を持ちがちな自分たちにとって、有益な存在と思っているが、彼らに共通するのは、「タブー」を破り、独自の思考を持とうとする一方で、ソレナリの見識のある人に対して傍若無人にふるまう事だ。
 小林の「戦争論」「天皇論」など、漫画家がこの国の思考の根幹を問うテーマを一から調べて考え直し、なおかつエンターテイメントに仕上げた労作の数々は、当然尊敬するべきものだと思う。
 しかし一方で、たとえば、小林にしてみれば「共同幻想論」の吉本隆明はカリカチュアするべきボケ老人として一蹴されてしまう。あるいはインテリジェンスと哲学の分野で巨大で実践的な思想を開陳する佐藤優も、小林にかかると狡猾な陰謀主義者となってしまう。
 
 橋下は橋下で、小林などコドモダマシを書いて自足する阿呆扱いする(たぶんろくに読んでいない)一方、自分の事を「さん」づけしないのは無礼だと、よくわからない子供じみた事を書く。そのほか、自分を支持しない論者は、「現場を知らない」論理で徹底的にやっつけて、にべもない。重心が低い、なかなかに本質を突く意見を書く、「レディー・ジョーカー」などの押しも押されぬ重厚な小説群を残した作家の高村薫には「何をしているのか全くわからない人」呼ばわりである。おそろしく無知であるか、確信的な皮肉なのかどちらかわからないが、幼稚さを世間にさらして臆することがない。
橋下のツイッターでの発言
 ふたりとも、とても面白いのだが、自分がよく理解しない他者に対して、いったん「タメ」を作って、敬意を表明しつつ議論する、という基本的な「大人の作法」を身につけていないように見える。
 
 小林よしのりは、漫画家として、一種の時代の狂言回しとして、存分に暴れてくれたら良いので、少々の礼儀のなさや、容赦のなさも、仕方がないとも思えるけれども、さまざまな智恵と声を集約する「ふところ」が必要な政治家の資質としてはどうかと思える。
 
 彼は今のところ、堺屋太一や古賀茂明などのブレーンを率いて、上手に知恵を吸収しているようなので、その点は良いと思うが、いっけん「敵」と思える相手にも敵意をむき出しにせず包み込むような態度、例えば自らを暗殺しに来た坂本龍馬を包み込んで翻意させた勝海舟のような包容力が必要なわけで、権威に反抗すればすむ「茶髪の弁護士」の延長線上の人格に、国政を任せるというわけにはいかないであろう。
 
 いっけん「敵」と思える相手に対する態度という点では、小泉元首相や、自民党の元防衛大臣の石破さんなどは、慎重且つ明快で、大人である。
 
 ただ、人格や「器」の点でかなり警戒するべき点が多いとはいえ、橋下氏にやはり期待してしまうのは、論点を取り上げて世間に訴える技術の巧みさである。参院廃止論なんて、いまの現役議員にはとても言えない提案だが、コスト削減が至上命題の目下の政治の現状では、傾聴するべき提案であって、「全く意に介しない」という自民党の対応は単に彼らの都合であって、国民の都合ではないのだが、そういう議論を提起できる着眼点は、それがたとえブレーンが作った政策にせよ、尊重すべき問題提起力である。
 
 ただ、一方で、橋下が先頃おこなった「日の丸君が代」問題をめぐる女性記者とのバトルでもって、橋下がやった事は実は単なる問題展のすり替えで、ほとんどの人がその事に気がついてないという、小林よしのりのマンガでの批判は、妥当である。優れた人同士が協力せず、ささいなことでいがみ合うのは、胸を痛める事が多いのだけれど、こういうふうに議論してくれると、その人々の思考のレベルや、人格がわかってくるので、ありがたい、とも言える。マスコミが間接的にチェックするだけでなく、当事者同士でやってくれると分かりやすい。まあ、このように簡単に批判できる脇の甘さは、私たちが子供の頃活動していた自民党の領袖が殆どなかった事で、このわかりやすさが今風といえば今風ではあるが、この調子で国政に入ってくると、敵は自国内でなく、老練なる国際社会に数々居るはずで、まあ無理だろうな、と容易の想像がつく。むしろ、味方につけられる物はすべて味方につけるくらいのしたたかさが欲しい。あるいは意見の違う相手に敬意を持って議論する力。
 
 そういうわけで、小林と橋下はよい点も悪い点もよく似ている。
 
 むろん、「人格」が政治ができるわけではない。ということは、野田総理のダメダメぶりでよく理解させられてしまった。「いい人」は最終的にどんな悪行でも、「よかれ」と思ってやってしまうという恐ろしさを持つのである。これはどんな現場でも共通。よい「悪人」が、リーダーには必要である。日本が戦争に負けたのも「いい人」病が現場の論理に負けてしまったせいではないか。当時の最高責任者達が「悪人」に徹して国民を飢えさせない方策がとれなかったのが、「敗戦」という結果になったのではないかと思う。
 
 しかし、橋下氏の「悪人」ぶりは、いくぶんスケールが小さい。もっとふところの深い、よい「大悪人」に成長できるのか。ムツカシイだろうなあ、とは思う。彼は何故か文化がお嫌いなようだが、実は政治家に必要なのは、ごく基本的な教養と哲学で、これは芸術・文化によって培われるものだからである。その意味では、ほとんどの現状の政治家は無知であろうと思われる、残念ながら。
 
 ふところの深い政治家を我々はもう期待できないのかも知れないが、ヨノナカに人材はごまんと居るはずなので、あまり絶望ばかりしているわけにも行かない。現に自分は生きているし、子供たちも生きていくのである。橋下氏に現状転覆の突破口を開いてもらうことには期待するが、信長・秀吉・家康で短期間に安定政治への道筋を作ったように、橋下の突破力の動きの後に、台頭する政治家も出て来るであろう。橋下氏自身も、そういう歴史的な役割を自認しているようにも見える。絶望などするのは甘ちゃんの行為なので、しないけど、鋭くチェックはしていくべきだよね、わたしたち国民ちゃんとしては。

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