ちかごろのこと・銀座のあらたなる動き・日本らしさを求めて
一方で、非常に多くの重要な出会いがあって、たぶん今後また人生を大きく変えていくのだろうと予感させた。人生なんて、やたら長ったらしくて、なかなか映画や小説になるような場面は少ないが、この一年はどこをとっても「ネタ」にできる、年であったかも知れない。
ところで、銀座では、いままでも「画廊巡り」「画廊の夜会」や、僕が友達と始めた雑誌「銀座室礼」のうごきがあったけれど、あらたな動きがさらに二つある。
ひとつは、私たち秋華洞が主催している「銀座くずし字講座」だ。これはいわゆる変体仮名、平安から明治にかけて全ての日本人が読めたにもかかわらず、1900年の年に行われた文部省の「テロ」によって、ほぼ99%の日本人がなかば文盲になる爆弾をセットされたことによって読めなくなってしまった、いわゆる「変体がな」を読むようにする講座だ。角田恵理子先生を講師に迎えているが、「生徒」もそれぞれが、「先生」になれるような強力な人が多く、狭い教室に活気があり、すこぶる面白い。
もうひとつは、つい先頃発足した「あしたの鞍馬会」という会。これは銀座の若ダンナ連中に金田中のご主人と、壱番館の若社長が声をかけてはじまったばかりだ。日本の伝統歌謡を銀座のダンナ衆がやる「くらま会」というのがあるのだが、ここの平均年齢はとうに70を越えているらしく、存亡の危機らしい。若い血を入れるために発足させたという。「顔合わせ」に参加した。私に音楽の素養は全くないし、邦楽はハッキリ言って苦手だが、その熱意には感じる物があった。今後も、もしかすると、参加するかも知れない。
思えば、こういう具合で、自分や他の人が起こす「動き」に乗るなかで、あたらしい「出会い」が産まれてきた。もちろん商売に結びつくとさらに嬉しいが、大事なのは本当はこういう様々なことが思いがけない広がりと人生への実りに結びついてくることである。
ところで、私の商売やら、歌舞伎やら、日本文化をめぐる環境は、すこしずつ厳しくなっていることは間違いない。歌舞伎も新しい血を入れて活性化をはかっているようだが、和菓子やら、和服やら、わたしたちの日本美術やら、ふるい、基盤となるニーズは失われつつあるのは間違いない。しかし、一方で、日本人を日本人たらしめているものを見失っては、じつは何もかも失ってしまうのだ。国土も精神も言葉も失ってしまう危機は、私たちの心の中にじわじわと広がっているのだ。心したい。
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