銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

*



美術と関係ないかも知れないが、考える、ということについての一般論。

   

丸善で買った『朝まで生対談 田原総一朗X佐高信』と『国が亡びるということ 竹中平蔵x佐藤優』読んで思ったこもごもあるいは、誰か特定の人を信じてはいけないということ。
 誰か、信頼に足る論者って、いないのかな、と思って、いろんな人の本を読んだり、テレビ見たりするのだけど、最近思うのは、誰かひとり、おおむね正しい人がいて、考えたり、判断するのは、あの人で、安心、ということを求めるのは、無理だし、依存的かも知れないな、と思いますね。
 
 ぼくが、この数年の人物で興味を持っているのは、佐藤優、田原総一朗、小泉進次郎、竹中平蔵、小林よしのり、堀江貴文、橋下徹、石原都知事、ほかにもタックルに出てた三宅さんとか、ビートたけしとか、阿川佐和子さんとか、櫻井よしことか、民主党の長島さんとか、みんなの党の江田さんとか、まあ、あげれば切りがないけども、今後の日本とか、世界のなかのニッポンとか、自分の方向性とか、考えるために注視している人はたくさんいるけども、このなかで、じゃあみんな意見が一致してるかといえば、全く、一致なんてしていない。それどころか、反目している人物も少なくない。あ、あげなかったけど、ナベツネなんて人も、面白いと思っている。
 
 今のニッポンの論点。
 原発の是非。
 TPP参加の是非。
 9条の是非。
 天皇制女系天皇の是非。
 参院存在価値の是非。
 増税の是非。
 首相公選制の是非。
 
 ちょいとあげただけでも、これだけの論点があるけど、上に上げた人のうち、たぶん全ての論点について意見が一致している、二人以上の人物は、いないと思う。当たり前だよね、2の7乗の128通りの立場があるはず。
 
 保守とか革新なんて、言葉があって、これでレッテル貼りすればすむかといえば、たぶんかなり時代遅れ。最近は竹中・小泉路線とか橋下とかを「新自由主義路線」なんて呼ぶケースもあるみたいだけど、あんまりレッテルでわかった気になるのは、思考停止の危険有り。
 
 これらについて、どうせ市井の僕らが考えてもしょーがないじゃん、という考え方もあろう。しかし「バタフライ効果」じゃないが、案外、自分のちっぽけに見える意見も、すっとヨノナカを動かす事だってあるかもしれない。あまり自分の思想・行動を馬鹿にするべきではない。
 一方で、私たちは時間も情報もない。目の前の自分の商売やら生活を回していかなければならない。餅は餅屋に、政治は政治家に、批評は評論家に、ある程度まかせてしまわなければ具合が悪い。
 だが、誰かひとりに「自分の意見」をまかせてよいかと、なると、そうもいかない。上の128通り、誰かひとりが、正解、ということもないだろう。
※ちなみに、この128通りを無理に「二大政党」に分ける事にどだい無理があると思うので、いわゆる党議拘束を含む政党主義はフィクションであるとぼくは思う。強烈な同調圧力で人を束ようとする橋下新党はもっとも共産党に似ている、という田原総一朗の指摘(橋下本人に言ったらしい。面白いね、田原さんは)が興味深いのだけど、社論統一とか新聞社に求めるのもおかしいと思う。
 「同調圧力」にゆだねる、という一種コソクな手もある。自分の会社、業界、仲間、家族、風向きにあわせるのである。ひとに合わせてれば楽々。わたしはソンナコトが良いとは思わないが、多少は誰だってあるであろう。たとえば、営業職がお客さんの意見にいちいちマトモに反論などしてたら、仕事にならぬ。ただし、自分が属する共同体はたいてい複数ある。みんな、微妙に風向きが違う。風向きが違うとすれば、やはり自分で考えるほかない。
 
 大事なのは「誰かひとりが正しくて、それ以外は皆それに合わせればよい」ということは、ない、ということである。あるいは「正しい人」と「間違った人」が居て「正しい人」の言うことはいつも頷いて、「間違った人」の言うことはことごとく首を振る、という態度は重大な間違いをおかすだろう、という事である。
 
 橋下や石原を見ていて、「ファシズム」と恐れる人がいるのは、彼らの意見があまりに表現力がありすぎて、「正しい人」に皆がしてしまうかもしれない、という恐怖感からの警告であろう。その触覚は正しい部分もあるけれど、しかし、一方で、あれだけの表現力を持つ人間に対抗しうる表現を持つ人間がこの世にいないとしたらなんと不毛なことであろう。しかし、日本の「世間」は案外、正しく判断する。下らんことを言ったら、下らん、と、マッサージのおばちゃんもヤクルトのおばちゃんも容赦なく言うであろう。ボクは彼ら(石原、橋下)が好きである。修辞が上手で、話が面白いし、本質を突いている。しかしふたりとも人のことをやたら「バカ」ヨバワリするのは、いただけない。石原の文学は大抵つまらないし、橋下のギャグもたいして面白かった覚えはない。何が言いたいかと言えば、弱点欠点もあるんのだ。そういう意味では、的に人格に深みを欠いている。「バカって言う自分がバカ?」、と、子供のように言い返したくなる。
 
 小泉のオトーサン、この人も面白い人だったが、ケンカは上手であった。自民党の権謀術数を知っている人であった。権謀術数を使えなくて、出て行った石原とは違うしたたかさがある。この人は、案外ひとの悪口は言わない。あんまり人のことを名指しで「バカ」とは呼ばなかったと思う。「私の意見に反対する人は、すべて反対勢力」なんてな名言を吐いたが、「バカ」とは言わなかった。そこには老舗政党で権力闘争を生き抜いたしたたかさと慎みがあった。リーダーには説得力と突破力も必要だが、人徳と慎みも必要だ。小泉さんはあまりにおおざっぱであったので、国政はいささか混乱したけれども、政権を維持するだけの求心力に秀でていた事は間違いない。
 
 弁護士出身の代議士が多いが、どうも最近彼らの具合が悪いようだ。橋下とか仙石とか、枝野さん、ほかにもたくさんいるが、何かこう、弁舌爽やかであるが、なにか真実み、を欠いている。橋下氏の「バカ」よばわりの激しさも、弁護士という職業と、関係あるのだろうか。弁護士は、詭弁を弄する生き方を学ぶことになる、敵をやっつけることにフォーカスして、真実を置き去りにする職業なのであろうか。
 アメリカの学校ではディベートの授業があって、ある「テーマ」について、くじ引きで、賛成・反
対を決めさせて、討論させるのだそうだ。ここでは「交換可能」な立場であるから、相手の「人格」に踏み込むことはない。すなわち「バカ」とは余り軽々には言わないであろう。「間違っている」のと「バカ」とは違う。「バカ」というのは、相手が判断能力がない、と総合的に判断できる、と言っている。「罪を憎んで、人を憎まず」とよく言うが、人と議論するとき、大事なのは、「意見は違うが、人格は尊重する」という事である。そうでなければ、どうして意見を交わせよう。弁護士出身の政治家がどこか具合が悪いところがあるとすれば、あんがい、そうしたディベートの基礎のトコロが抜けているところが、ひとつ。それと、政治家には「哲学」が必要なのに、誰一人、それを学ぼうとしていないところに問題があるような気がする。じゃあ、哲学ってなんなの、って、デカルトがどうとか、そゆのとちょっと違うけど、「深い思想」とか、「思想について思想する」みたいなことよね。そのあたりは上記の佐藤優の本を参照して欲しいのだけど。
 
 相手のことを徹底的に認めて、尊重して、それでも、意見が違うところを、多少腹が立っても、議論して、手を握る、みたいな議論の仕方、僕ら日本人には難しいのだろうか。
 
 それと、今の日本で、この人なら、全部思考をあずけて大丈夫、なんていう論者は全くいないので、依存しないで、いつもアンテナをはって、自分で情報を入手して考える、これが大事だね、と思う。
 
 
 

 - 日常, 読書