「親鸞と阿部清子 –「問う」ことが世界を救う– 」カタログ30号の私のコラム
親鸞と阿部清子
今回のカタログは30号記念として、私どもで推している二人の若手日本画家・池永康晟と、阿部清子に登場してもらいました。そしてこのカタログが発行されるであろうクリスマスの時期、弊社画廊で阿部清子の個展が開かれます(2011/12/9(金)?17(土))。
その個展の名は、「霊性道場」。http://www.honen-shinran.com/
この題を聞いた時、ああ、と心の中の様々がピタリと合わさるような思いがしました。この世は魂の道場。私もそう思います。彼女がそう考えていることも、気づいていました。
時同じくして、現在、東京国立博物館では法然と親鸞の展覧会が行われています。念仏への帰依で知られる親鸞ですが、五木寛之の小説「親鸞」によれば、親鸞は幼少の頃より抱いた自分自身の心の有り様への疑問を解くために、比叡山に入ります。しかしそこでは悟りを得られず、むしろ聖地にはびこる権謀術数うずまく俗なる匂いに絶望さえして、山を降り野の「聖(ひじり)」として、俗世に生きる民のなかで道を探る事をえらびます。
私は、親鸞は人の何倍も欲の強い人間だったと思います。生きる事とはなんだろう、人は何故苦しむのだろう、心は本当は何を求めているのだろう、救われるとはどういう意味だろう。本当の道をどうしても知りたい。幼い弟たちと生き別れになったとしても知りたい。
仏門に入り乞食になる事も、芸術家になる事も、同様に愚かで、自分勝手で、リスクの高い事だと思います。しかし一方で、欲の深い人間、あるいは深く「問う」人たちが、私たち俗人の心を助けてきた。深く何度でも問い、そこから湧き出てくるつぶやき、あるいは叫びのようなものが、私たちの日常の心を救ってきた。(そういえばAppleのスティーブ・ジョブズも“Stay
foolish(愚かであれ)“と言っていましたが)。それが、美術、芸術・あるいは「念仏」なのではないでしょうか。
私たち自身も、この世は今生の魂の修行の場と考えると、多少面倒なことでも楽しめる事があるように思います。
奇しくも今私自身、いささか面倒な事に巻き込まれて、ある巨大な資本と闘う羽目にあっています。その「敵」は世間に「倫理」を説くことを標榜していますが、一方で冷徹な論理で人を押しのけて来た方のようです。仕事をしていると、どうしても世間の理不尽と向き合わざるを得ない場面が出てきますね。しかし幸か不幸か、現代はそう簡単に命までは取られない。どんな事でも修行と思えば、極めて興味深い日々です。
そういえば、たまたま今朝の新聞では、例の「オウム」容疑者の最後のひとりの死刑が確定したニュースを読みました。彼らがロボットのような最悪の偽善者に化けてしまったのは、戦後日本が、人生の意味を問う力を弱めてしまった事と深く関係していると思います。芸術・文学や宗教哲学、国家観などの衰弱が、彼らのようなエラー細胞(癌)の拡大を許してしまった、と考える事が出来るでしょう。
優れた芸術は、心を救う。そして世界を救う、かもしれない。何百年かかるのかは知らないが。しかし私は、そう心密かに強く、念じています。
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