ロータリーのテーブルとーく、ネットって恥ずかしい?
私の中学校のとき夢中になった映画の原作者の方がロータリーでのお話しに来て下さった。
ブラックで痛快な方だ。思わずamazonで本を4,5冊買ってしまった。
いろんなお話しがあったが、印象に残るのは「便利の奴隷」となるな、という警告だ。
便利奴隷には三段階あって、
これが痛快なのだけど、
スピーチの「著作権侵害」になるといけないので、割愛。
でもね、思うんです。ネットで便利になったけど、本当、氏のおっしゃるとおり、携帯や情報端末梨では生きられない、というモードが、ちょっとおかしいんじゃない、という視点。
便利だから、使うのじゃなくて、不安だから使うみたいなね。
で、氏は自分もその奴隷になっている自覚があるという自虐的ユーモア。
私の場合、オヤジを筆頭に、ネットやら携帯メールやらほとんど使わない人種と(美術商はどちらかというとその傾向の人が比較的多いかもしれない)接しているので、自分の依存ぶり?をヒソカに恥じていたりして。
でも、実際にはパソコンやネットの情報収集力や発信力は圧倒的に仕事のやり方を変えているわけで、ンなこと言うのは変なんだけど。
ただ、人類の数千年として営々として育んできた文化・歴史・知恵の精髄、あるいは生身のひとりの人間の一生や存在の持っている情報量というものはネット全てをしのぐ強さと豊かさがある、という事を常に自覚していないと恥ずかしいように思う。ネットの恩恵(お客さん集め)に浴していながらも一切近代的兵器(この人はビデオの再生ボタンさえ押せない)を使わずに仕事をテキパキこなして去っていくオヤジドノを見ながら思ったりする。