『指派(ゆびのは)』始まりますぞ。池永個展は今週まで。
韓国に今月初めに参りましたが、レポートもろくすっぽしないまま、あっというまに三週間経ってしまいました。これほど忙殺された時期も珍しいかも。
ツイッターというのは、これやはり継続できる人は偉いですね。ちと息切れしてブログと同じく未更新状態が続きました。だって反応とるのむずかしいのだもの。「ネット芸人才能」力ももう少しつくと良いのですが。HP更新しろ!とスタッフにハッパかけておきながらいささか情けない告白ですが。
さて、池永康晟、阿部清子、に新進の喜田小夜子を加えた「指派(ゆびのは)」展、銀座地区の「クリスマスアートフェア」にちょうどあわせた形で、12月10日から、いよいよ始まります。
「指派」とは「日本画」で人物を描こう、という「運動」のようなもので、池永康晟が提唱、今回で3回目、になるのかな。
どんなものが飛び出てくるのかまだわからないのですが、この三人は本当に魅力のある「日本画」を日本と世界に伝える役回りになると確信しています。
ただしここでいう「日本画」とは手垢のついたある種の権威とか形骸化した世界とは隔絶した、やわらかくフレッシュな概念としての
<にほん・が>です。
一応のシバリは「膠」。膠で絵の具を溶かすこと。
この「シバリ」に何の意味があるのか、と問われれば、ハテ。
菱田春草が言ったように、「日本人」が描けば「日本画」だ、という論もあるでしょうし、
岩絵の具と墨を使えば、などの技術論もあるでしょう。
横浜美術館でやったような、漫画や現代アートの文脈も拾った広い意味での「日本画」もあるのでは、と問うことも出来るでしょう。
私に言わせれば本当は「日本画」の魂、心意気を受け継いだ連中だよ、と言いたい。
若冲、応挙、栖鳳、大観、古径、靫彦、松園、清方。勢い余って付け加えれば広重、北斎。
それぞれ、その時代に受け継いだ日本の表現を最大限勉強して、彼らの「今」を作った。魂全部を注ぎ込んだ。
細かく言えば、今回は「人物画」なので、日本の人物画、歌麿、芳年、清方、深水や大阪・京都画壇の大正美人画などの系譜に連なる、
と整理した方がよいかもしれない。ま、本人達の意識はあまり歴史にこだわっていないというか、部分的な史実しか識らないと思うけど。
「膠」のシバリは、多分、日本の魂、アナクロ、滑稽と言われようが日本画ないし日本の魂を呼び起こす媒体なんだろうと思う。
提唱者の池永君は言葉少ななので真意はわからないが、言葉少なだけに、極めてまっとうなことを言う。文章ではいささか感傷的だったり変態ぽかったりするが、
彼の肉声を聞いた人はそのまっとうさや真剣さに、多分感じる物があると思う。見た目は漁民そのものなんだけど。(実際彼のご親戚は漁業に携わっておられるらしい)。
そういう意味ではトークショウは面白くなると思います。
詳しくは秋華洞HPで。
ゆびのは展のお知らせページは
今後驚くようなゲストが指派には登場するかもしれない。けれどまだまだ発表出来ませーん。
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