日本画が亡びるとき(秋華洞ニュースレター最新号の原稿です)
日本画が亡びるとき
この標題は、もちろん水村早苗さんの近著『日本語が亡びるとき』の「もじり」です。ネット上で、日本画は死んだ、明治に生まれ昭和に死んだ、と村上隆さんが述べられているのに刺激を受けてこのテーマで書いてみようと思いました。
まずはじめに、日本画は死んだ、という指摘には、その言わんとすることに同意するものです。岡倉天心が唱えた新しい日本画、押し寄せる西洋文化の波に拮抗しうる日本の魂の表現としての院展的な流れ、あるいは反逆者としての日本画の魂は潰えた。
ただ、日本画滅亡論、は戦後すぐにも議論となり、またもう少し遡ると、フェノロサによる「文人画」の否定など、「死亡」宣告的批評は何度かありました。
「映画」についても、80年代、「映画は死んだ」とする論はあまたありました。いささか文学的感傷もあるとはいえ、19世紀に生まれ、20世紀に死んだ、とするもの。
では「死んで」、なお生まれてくる映画群、には私たちはどう向きあえばいいのでしょうか。私たちは亡霊を見ているのでしょうか。あるいは「日本画」の上村松園、横山大観の表現は過去の地層を見る考古学者の営みなのでしょうか。そして今なお、日本画家を標榜する若い絵描きはたちの悪い夢遊病者の群れなのでしょうか。
『日本語が亡びるとき』で水村さんは普遍語としての英語の圧倒的優位性と、世界に決して伝わる事のない「その他の言語」に含まれる「日本語」の非対称性を訴えます。そして「英語的文化理解」の文脈に沿わない感情や事物が世界の文脈から無視される危機。
水村さんは著書の最終章で、国家方針として、全員でなく、英語エリートを意志的に産みだし、交渉力を磨くことと、一方で、国民全員に「日本語」教育を充実する提案をします。日本語固有の表現世界に積み上げられた豊穣な価値を喪わないために。
ところで「絵画」は言語よりも簡単に世界に広がる筈の、「自由」な表現であるはずなのに、ドメスティックな文脈と政治に頼って繁栄を謳歌してしまったことに、「日本画」の衰退の原因があるかと思います。が、反対に「真に」では欧米絵画が「世界的」であるかといえば、連合国の普遍言語である「英語」の文化の中心にいただけ、ともいえるでしょう。「表現」の政治的強さや「価格」が感動と連動するわけでは勿論ありません。
ハリウッド映画が衰退するなか、日本映画のリメイクが流行り、多くの撮影所が閉鎖された後にも優れた日本映画が輩出するように、権威としての官展・「反骨」としての院展が寿命を終えた後にも、日本に産まれた作家たち、あるいは日本に関わる作家たちの新しい創作は産まれてくるでしょう。「指派」の三人も、その流れを造るものと思います。
「日本画」どころでなく、「日本」自体の「亡び」さえ恐れられる21世紀、現にこうして生きている私たちに何が出来るのか。秋華洞としては、日本の歴史の断面に隠された優れた全ての表現を今に生かすこと、そしてその表現を受けた新しい息吹を世に送ること。世界の文脈に翻訳すること。そこをやって参ります。
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