銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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どうなる『ゆびのは』

   

日本画で、人物画を、真剣に、前人生をかけて描いている画家を結集する『ゆびのは』。

池永君が提唱、主導者だが、ディレクター、あるいはお助け人を勝手に私が自認している。
今のところ、ぴったり来る「同志」が見つかっていない。
ところで、オールアバウトの日本画がなくなってしまったことは、実は野で活動する作家(三大団体に所属しない人)にとっては、非常に困った状況であり、鑑賞者としても、情報ポータルの不在を意味する。
今度やる『画廊生活』企画の中ででも、あらためて「情報ポータル」を目指すなど、なんらかしかの手を打ちたいところ。松原さんがちゃあんとやってくれるといいんだけどね。
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さて、私が今後役割としてやるべきかな、と思っているのは、日本美術の伝統を踏まえた上、あらたな美術作品の創造をお手伝いすること。
本当のところ、現代アートと近代絵画の業界の区分けは上辺のことで、あんまり意味がない、と思っている。でも、作家および作品を「商品」として売っていくときに、「ジャンル分け」的なわかりやすさも一方で必要とされているのは事実。実際、ゆびのはも「日本画」なんて縛りをわざわざ言ってるしね。
「日本画」というのは菱田春草の定義によれば「日本人が描いた絵」という意味。コンセプトの有無、画材の事は問わない。でも油絵はどうなの?という議論が出てくるはずで、すると「岩絵の具」という「シバリ」を世の人は考えた。
でもね、その定義もなんかヘンと言えばヘン。何なのでしょうね。
ただ、今のように、院展、日展などの「流れ」的な「お約束」の世界と、「現代アート」的お約束の「どちらか」に行くことで商品たりえている「芸術」ってどちらもステレオタイプ的という意味では共通している。そんな定義から自由で、パーソナルで、しかも世界に開かれている、そういう表現が必要なんじゃないですかね。しかも伝統とシッカリ繋がっているような。
映画だとわかりやすいんだけど。なぜなら、やはり強い映画は、古典をシッカリ勉強している作家から出ている。「CM」とか「TV」、反対に「アート」方面から、みんなが楽しめる作品が出てくることはまれ。新しい物は、かならず伝統を研究している。ゴダールなんて、斬新だけど、映画史を研究し尽くしたうえに作ってるモンね。それでいて、パーソナルで、自由で、世界に開かれている。同時に、謎めいている。
池永君はその点とっても自覚的(多くはしゃべらないけど)なんだが、そのあたりの聡明さを持った作家の応援をしたい、と思っている。

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