東大その2、大学について
私は留学したことはないが、アメリカの大学や院では、非常に活発なディスカッションが行われると聞く。日本人の社会では、「何か質問は?」と演者が聞くと、80%のケースで「シーン」となる。「では、この辺で」。本当のディスカッションは、もしそのあと「飲み会」があれば行われるが、そもそも「質問力」で演者と聴衆に頭の「値踏み」がされる事を恐れて、殆どの場合は手が上がらない。会社でも、議論を活発にするには、司会の十分な巧みさが大抵必要である。だから日本の大学では、ああいう板書をひたすら写し、聞く授業が中心となるのだろうが、どちらかと言えば、授業の「質」のレベルの高さでいえば、大学より、高校、中学。中学より、小学校のほうが高かったように思う。小学校(三鷹第三小学校)の近藤悦子先生の奮闘ぶりは素晴らしかった。無論受験したものなら誰でも知っているようにいわゆる「塾」には素晴らしい先生が沢山いる。教えることのプロである。しかしこうした転倒ぶりは、日本社会の質を日に日に蝕んでいる。
東大、という言葉の先にこの記事でつく言葉が象徴的である東大「まで」の人「から」の人。つまり試験に受かったから、頭がいい、優秀、な人。そこでもえつきた「まで」の人。「から」の人だって、「最高の教育」を受けたところ「から」来た、と世間はもしかしたら誤解してくれているかもしれないが、「頭のイイはず」の処から「来た」ハズの人。それだけである。「東大」の実態がどうであるか、大学がどうであるか、ということは問われない。日経の「私の履歴書」を読むといい。エリート大学を出た有名な経営者の青春は大抵「ろくに授業も出ないでサークルやバイトに精を出した」とある。「必死で勉強した」と書いてあることは皆無と言っていい。しかしこんなことは本当は異常なことである。
経営者は「慶応」卒が多い、とはよく聞かれる事だけど、これもお金持ちの子供はお金がかかる最高学府のブランドと人脈を手に入れて、なお成功しているのみである。
「金融」や「IT」で、アメリカに遥かに抜かれてしまった。ITの世界ではMicrosoftに次いで、Google。オラクルも頑張っている。彼らの基礎的なプログラミング能力の強さと、技術を経済活動に結びつけるアグレッシブさ、そして絶対にやり抜く勢いなど、どれをとっても、日本人が成し遂げられなかったことだ。それはこの日本の大学の空洞化と無縁ではないと思うのだが、どうだろうか。
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