銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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有名人についての論評など、やりにくな、と思うこと。

   

有名な方と交流を持つ機会はこの仕事をしていると、ネット以外に当然ある。すべての方がいわば見込客である。まあ他の商売もそうであろうが、ひとりの比重が多いのがこの仕事の特徴。
だからとばかりいえないが、自分がこうして匿名でなく、実名で文章を発表していると、ユーメー人に対するコメントが書きづらい。そもそも批評を生業にしている作家や芸能人ならともかく、私は一介の商売人である。誰もに好かれた方が都合がよろしい。以前鳩山兄弟に対する皮肉を書いたが、彼らは富豪であって、非常に重要な「見込客」といえなくはない。たいていの有名人は大事な「見込客」である。だからこのブログで論評するのは愚かである。だから、ここで書きたい事は書くというのは、商売人としてのセンスに欠けるのかもしれない。何の意味があるのか、自己満足に過ぎないのではないか。
しかし商売のことを抜きにしても、ネットが出来てから「一般人」と「有名人」の境が曖昧になった。誰もがネットで発信できる。
かつては、一般人として、そこいらで有名人の論評をしようが、直接、本人が耳にするわけではないが、ブログに書くと、本人が本人名で検索すると、簡単に出てきてしまう。指しで論評すると、本人が見る可能性があるわけである。それはなんだか書きにくい。ベツに本人の「悪口」を書きたいのではなく、人間や社会を論ずる材料として取り上げるのだが、本人の「印象」というものがある。別段永久にあう可能性がなければともかく、生きている限り会う可能性もあるわけで、たいていの人とはやはり仲良くしたいのである。
じゃあ書かなきゃいいじゃない、何を言っているの?しかし、意見を表明するのに、有名人の立ち位置に対するコメントはわかりやすい。政治に対する論評など典型的である。
あるいは心配してもしょうがない、自意識過剰と言われてもおかしくないが、ネットというものは、一度書けば永遠に残るし、検索も可能である。意見がコロコロ私など変わるが、それも一目瞭然でわかってしまう。ムセキニンに書いたつもりでも、責任が全くないともいえないような気がする。
たとえば私が美術業界の個人を名指しで論評する事は少ない。ナントカ画廊のナントカさんの見識が良いの悪いの書く、なんてことはありえない。やはり批評は一般論であるか、公人であるか、という時になされるものであろう。明日会合でヤアと会う友達の批評をネットでやる、ということはあり得ない。けれども公人にも、明日会うかもしれないのである。ツイッターやブログで「本人」とコミュニケーションが簡単に可能な時代、どうもモノを書くスタンスをどうとったらいいか、もやっとする。
ツイッターなんか見てると、露骨に人の事を揶揄して平気な人がいるけれど、初めて会った相手に面と向かって「あんたバカじゃないですか」というようなものである。そういう人種(一部のマスコミ的)もいるけれど、まともな人間のやることじゃないだろう。嫌われるのが好きな人ならともかく。

何を言いたいか。
それは、ネット空間が出来たことで、公人と一般人の境目が曖昧になり、床屋や居酒屋の有名人論評と同じノリではブログやツイッターで書きにくい、のではないか、という問題提起である。
なんかグニャグニャした文章である。ま、ネットであるからして、これはこれでアップしてみよう。

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