相米慎二、とメディアの未来
一昨日だったか、なにげなくテレビをつけたら鶴瓶の番組に中井貴一が出ていて、ずいぶん親しくトークを展開していた。
番組の最後に、中井貴一と鶴瓶、そして相米慎二と「安さん」という方が、4人で「アホの会」として飯を食べていた、という話が披露され、相米、そして安さんが死に、二人になってしまったとして、鶴瓶は声を詰まらせていた。
人生の前半、私は相米慎二とその映画への憧れで生きていた。生の相米を見かけたのは小さな講演会みたいな席で、チラリと会っただけだが、いつか彼の仕事が出来たらと夢見ていた。学生時代の8ミリで手痛い失敗をし、映画を撮るパワーを喪失してしまって、夢を自分で絶ってしまった。
最近は、日本映画の再興がいわれ、若手の才能が世に出ている。自分たちの10代、20代、映画が面白かった、熱かった頃の映画への憧れが、今になって結実していることは嬉しい。そのなかに自分がいないことは寂しい。鶴瓶と相米、中井貴一を結ぶのは「東京上空いらっしゃいませ」という牧瀬里穂が主演の映画だと思うが、そのサークルのそばに行ってみたかったが、相米が死んでしまった今、果たせるはずもない。
忌野清志郎も、最近亡くなったらしい。死ぬという事は不可逆で、会いたい人も、死んでしまえば会えない。やれることは後回しにしない、とくに人との出会いは後回しにしない、という事が大事だと思う。
中井貴一の俳優としての成長は、「風のガーデン」で、ずいぶん驚いた。山田太一のドラマでのワンパターンのおどおどしたキャラクターくらいしか、印象がなかったからだ。鶴瓶との対談でもいい意味でのふてぶてしさが出ていて、オトナになったのだ、ということが知らされた。仕事への愛情は、相米との出会いも寄与していたに違いない、と想像する。
テレビ、というものの興隆で、映画は一時期死んだ、という言説があちこちに踊った。だがそのテレビも死のうとしている。・・かのように見える。だが映画の例で言えば、決してテレビも死ぬことはないだろう。テレビが復活するとすればテレビへの愛のようなものが浮かび上がってくる時なのかもしれないが、テレビに愛があるのかどうか知らない。新聞、出版についても同じ。
映画制作に血道をあげていた自分が沈み、今は美術商として道を開こうとしている。当時映画がそうでもなかった友達は、テレビと新聞に行った。中途半端な仕事への愛情が、テレビにふさわしいと思ったものだ。
自分の仕事、これは実は映画や活字、テレビより遙か前の「手で書いて手渡す」というもっとも原始的なメディアで、「マス」が介在しようのないビジネスだ。(そういえば演劇も少しだけ似ている。)美術が出版文化、出版文化が映画、映画がテレビに、そしてテレビがネットに「殺され」て来ているわけだが、どれも本当に死にはしない。純粋な愛情、愛情というとまあ感傷的すぎるのだけど、計算外の少し狂気じみた偏愛みたいなものが、各メディアを現在と未来に生きさせるのだろう。
そんなこと言っていても、飯を食わなければいけない。みな飯を食って考える。それでも鶴瓶の涙を見て、「愛」というものに思いを馳せないわけにはいかない。
生のニンゲンって、アホウだな、スケベだな、でも可愛いなあ、にくったらしいけど、でもにくめないなあ、そんな根底的な「愛情」だけが、世界を変えうる、と思うのである。
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