日展100年
http://nitten100.jp/index.html
日展100年展に妻と行ってきました。日展というと、率直に言ってあんまりイメージよくないんですよね。保守的という意味では。
けれども文展・帝展・日展と展開してきたいわゆる「官展」の歴史が、近代の日本美術の流れをいろんな意味で作ってきたのは事実で、この流れというのは非常に重要な意味を持つのですね。今でこそあんまり展覧会の審査や、組織構成を巡って、角突き合わせて議論口論ケンカする、という場面はなさそうですが、展覧会のあり方を巡っては、激しい主導権あらそいがあらゆる時代の「新派」と「旧派」の間で起きてきたわけで、その主戦場がこの「官展」、この権威ある場を巡る事だったようです。
私は文献その他でそうしたことを読んだだけで、なまなましい現場自体はもちろん知らないのですが、そういうドロドロした部分は、この展覧会自体ではたぶん直接的にはわからないと思います。ただ、名前が次々かわり、主体が変わってきた歴史を知るだけでも、「日本美術」が政治的に熱かった時代をあらためてうかがい知ることができました。
そして、日本美術を形作ってきた有名無名のスターたちが、どのようにこの「権威」あるい美術展に向き合ってきたか、という歴史をみるおもしろさ、みたいなものを私は感じました。おもしろい、と書きましたが、全体的には作品は「カタイ」「真面目」なものが多いですね。
この「カタサ」は、たとえば後年、精神性の高い菩薩像を描くことになる村上華岳のごく初期の作品に現れていて、きわめて有名な細密な田園風景なんですが、「美術」「絵画」にこれからの人生で向き合っていこう、というみずみずしさが感じられて、カタイと言っても、むしろうれしくなる作品です。玉堂や春草、栖鳳の初期の名品にしても、そうした「これから」を予感させるみずみずしさ、清潔さを感じさせるモノでした。
私が個人的にほしいな、と思ったのは北村四海の作品ですね。あくまでつややかな石のオンナの肌が、エロスと叙情性を緊張感を持って表現していて、惹かれました。福富太郎コレクションにもこの人の作品はあったと思いますが。
うちの奥さんがイチオシだったのは、川崎小虎の美しくかわいらしい六曲一双の屏風。私も実はかなり好き。川崎小虎は、東山魁夷の先生なんですが、画風は全く違って、ちょっとした風俗や古典をファンタジックに描いて、画面は明るい。芋銭とか三良とか放菴なんかもそうですが、田舎の風俗を優しく明るくやわらかく描くこうした関東系の画家たちは私はこれからも積極的に扱いたいですね。
それから新美術館の雑誌にも書いてあったけど、この展覧会は、「埋もれてしまった」画家を、あなたが発掘するチャンスです。無名・有名にかかわらず、あなたのイッピンを選んでみてくださいませ。さらにどうしてもホンモノがほしくなったら、私ども秋華洞へご連絡を!
その意味では、帝展南画の大家、小室翠雲の展示がなかったのはなぜでしょうか?それと、松林桂月の水墨の山水が、なんとなく恨めしげに見えたのは私の錯覚でしょうか。なぜ水墨なのか、桂月が何を考えていたのか、私にはよくわからないのですが、明るい画面が目立つ戦後の日展で、あの水墨の地味さはなんとしたことか。桂月はもっと評価されてもよい人だけど、あえて評価されないようにふるまっているようにさえ見える。私はどう受け止めてよいのかわからないのですが、桂月はなかなかの作家ですから皆様お見知りおきを。とくに山口県の方、あなたの県のヒーローの一人ですぞ。高杉晋作や阿部さんだけじゃないんです。