銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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あれまびっくり玉手箱といいますか、オールアバウトさんにこのブログを掲載していただきました、「アート」という言葉

   

今日、コーカンカイ(損した・・・)から、帰ってきたところ、イヤマから伝言、なんと、オールアバウトの日本画ページに、このブログの紹介をしていただいた。


今ブログから濁点が消えて「ブロク」になっているのに気がついたが、間それは兎も角、なんとも目立つ場所にリンクを置いていただいた。

 

本当にありがとうございます。うれしいです。

 

ところで、このブログは「美術商の舞台裏を赤裸々に書く」あるいは「新米美術商ならではの初々しく新鮮な始点での美術業界裏話」ということになっているのだけれど、この商売はお客さんあってのもので、フツウ美術品を買った売ったはあまり知られたくないものだろうから(だけど何でも鑑定団に出たい人があれだけいるのを見ると必ずしもそうでもないかもしれないが)、あんまり余計なことを書いちゃあまずいだろう、ということを最近感じてきた。

 

もしこの機会にお読みになる方が増えると、ますますそうかもしれない。当然、お客様はもちろん、ひとの迷惑になるようなことは描かないように気をつけておりますので、皆様ご安心ください。

 

とはいえ、率直なところは率直でなければイカン。日記という文体は多分ある種の率直さを、おおめに見てもらうための形式ともいえるとも思う。

 

と、いうことでコラム的に次の意見

 





おそらく、いろんな人にいいつくされていることだろうが(僕の知っている限りでは赤瀬川原平と山下裕二氏が其れぞれのコラムで述べていた・・・あ、二人とも同じ本の著者だからあたりまえか)、「アート」という言葉はいやだなあ、こそばゆい。

 

今度の8月に有楽町の東京国際フォーラムというところで「アートフェア」が開かれるのだが(ウチは今年は参加しません。でも見に行きマース)、そちらのブログを見ると、やっぱり「アート」は、「アート」が、という文体が繰り広げられる。現代アートの人が何か雑誌の対談をしているのを見ると「それもアートなんですよ」などと相手の対談者を「はあ」と戸惑わせている。

 

アート、という言葉は、日本語では、多分ふつう古美術・近代絵画には使わない。たいてい現代美術との関連で使われる。で、「現代美術」というのは、「現在」の「美術」ということではなくて、「現代美術」というジャンルといいますか、村みたいなものがあるらしい。

 

ぼくはその村のことは皆目知らないのだけれど、「映画」の世界に置き換えると、「アート」的な映画、というと、20年ほど前にほんの少し話題になった「天使」とかいう意味のわからない映画などを連想する。

 

なんかこういう映画について、面白い、といってみると、あるいはウンチクが語れると「認めてもらえる」という世界が多分どこかに存在するからこういう映画が存在できるのだろうな、という類の映画である。


「アート」的な名称で出てくる絵画というのは、西洋現代の、とくにアメリカの伝統が何もないところから、ともかくも自国の文化を作らなければ、というところから出てきた抽象的絵画群と、「アート」という名のもとではとりあえず目立つコンセプトで何かやれば、ええんだというハッタリ的なものから出てきて、「あーステキ」「これほしい」という欲望から遠く離れたもののにおいがする。「難しくてわからない」というやつ。そういう「アート」の影響から出てきた日本の「アート」。

 

いくらそんなことをブツブツいっていたところで、リキテンシュタインとか、ウォーホールとか、近くではダミアンハーストを「ほしい」と思う人がいて、「いやもう何千万だしてもほしい」というクラスの「ほしい」というヒトがいるので市場が成り立っているのだろうから、とやかく言うことはない、のかもしれない。

 

だけど、日本人は足元に、仏教美術、大和絵、墨蹟などからはじまる、膨大な伝統というものをもっているのだから、あまりアメリカ的なワルノリ抽象アートに影響される必要ないんではないかと思う。
 

日本語であえて、「アート」と、そこいらの物体を呼ぶ場面は、多分、一般に、「骨の髄からは感動したりしないけど、まあなんかこう感覚の表皮をちょっとぴりぴりっと心地よくなでる」類のもの、を呼んでいるような気がする。

 


(外人に英語で説明するときに仕方なく使う「アート」という言葉とは本質的に違う気がする。共通の言葉を仕方なく使うための「art」は、それはそれとして、いい。だからアートフェア、は当たり前だなやっぱり。)

 

さて、じゃ、近代絵画とか陶芸は、とっても感動を誘うものばかりか、といえば、そうはいわない。でもどんな安い(数万円)のものでも、「大事にしたいなあ」「ステキだなあ」「宝物だなあ」という「人の手がかかっている感じ」があるように思う。

 

 

と、かなんとか、いいながら僕の会社の名前は「アートオフィスJC」。ま、いいかげんといわれれば仕方ない。美術事務所、では固すぎるのでこうした。田中自知郎・千秋美術事務所、という名前を軽くしたのである。あまりいい名前でもないけど、業界では「JCさーん」で通ってしまった。花田さん、とか綾小路さん、とか、ちょっとかっこいい名前なら迷わず綾小路美術、とか名づけたと思うが、田中美術、じゃねえ。他に無数にありそうだし。鈴木一朗が「イチロー」と名乗るようなものなので、この自己矛盾、許してください・・・・・・。

 

で、僕はやはり「美術」とか「芸術」のほうが、言葉としてはスキなのだけど、「芸術祭」とか「美術展覧会」というと、現代の文脈では、やや旧態依然的、あるいは惰性的開催、というイメージになってしまうかもしれない。なんとなくオジサン・オバアサン的な世界、という感じもなくはない。現在おこっている美術的なモノ、現象、もろもろをくくる言葉、というと「アート」になってしまうのはやむを得ないのか。

 

日本語を生きる、というのは面倒くさいなあ。そもそも美術、芸術、日本画、などという言葉も明治維新後できたものだろう、多分。日本画は間違いない。びじゅつ、げいじゅつ、も福沢諭吉先生あたりが作ったのだろうか。

 

絵、とか、画、とか、その程度の呼び名しかない時代が、単純でいいけど、そんなこと言っても始まらないな。

 

なんかガタガタの文章です。 なんか余計なことをいろいろ書いている様なきもしてきた。ぼくはまだ半可通な知識経験で書いているのではあるけれども、今の時点での素朴な気持ちであります。

 

 

 

 

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