美術新聞の夏目さんの記事
「新美術新聞」という新聞がある。本屋さんにも置いてるところアリ。たとえば有楽町の旭屋書店。
これに靖雅堂夏目美術店の夏目四郎さんが最近連載を再開している。夏目さんはとてもダンディといったらいいのか、白髪白髭の優しい紳士で、いつもお世話になっている。お世辞でなく大好きである。
さて、それは兎も角、今週、「村上華岳展」を見た感想を載せておられえる。
村上華岳は、菩薩像を晩年描き続けて、今回おびただしい数が出品されていた。とくに「山」を描いた作品にあらためて、驚き、感動した、という旨なのだが、私はいくつになっても感動できる感性の方に感心した。
私の方は、今回の展覧会の出展数の多さに、かえって、ちょっと華岳の神秘性が失われたように思ってしまった。けれどもこれは若いうちにあまりにいいものを食べさせられて、そのことのホントウの価値がわからない、ということかもしれない。あるいは同日に見た曾我蕭白の衝撃が強すぎた面もあるけれども。
ある先輩にも最初言われた。画商も、心が動く作品、作家の対象は必ず変わるものだと。眼が見えてくるにしたがって、作品のよさの良さといいますか、印象が変わってくるのだろう。
横山大観は誰にでも人気で、評価も非常に高いが、この人など、多分見方がいろんな風に変わってくる人じゃないかと勝手に思っている。うまい下手という基準と違うところに何かがありそうだ。かといってヘタウマ的(中川一政的)なニュアンスではない。
学生のときは、たまたま見た萬鉄五郎(だったんじゃないかと思う。間違っているかも知れぬ)に、ひとり感動して、何でこんなに感動すんねん、と当惑したことがある。何なのでしょうね。自己満足なのか、そこに何かあるのか。
商売だから、そんな個人的感慨とは別に、「値踏み」もしなければならぬ。
あれ、ずいぶん脱線した。ま、兎も角僕の言いたかったのは、いくつになっても、美術には発見がある、ということだ。それを仕掛けてくれた美術館のスタッフの方々、ありがとうございます。