銀座の画廊<秋華洞>社長ブログ

美術を通じて日本を元気にしたい! 銀座の美術商・田中千秋から発信—-美術・芸術全般から世の中のあれこれまで。「秋華洞・丁稚ログ」改題。

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曾我蕭白その後

   

蕭白展を見た後、ゆっくりと私の中を蕭白ウイルスがまわっている気がする。どうにも気になるのである。

 

以前メルマガのニューヨークレポートでダミアンハーストの事を「悪趣味。」と評したが、この蕭白も悪趣味、といえば悪趣味である。

 

しかしその悪趣味の精緻さ、生真面目な悪趣味ぶりに何とも魅力を感じるのである。悪趣味といってもイロイロありまして、シュールレアリズムとかブルセラとか、悪趣味=単純にモラルに反しているという意味ではごっちゃになるけれども、さて、規範を逸脱したところでどこにいこうとしているかというところに違いがある。

 

蕭白の考えていたことなどわかりようもない。が、しかし、醜き妖怪のような人間の化けの皮をはがすかのような身振りをとりつつ、それでもなおやっぱりニンゲンおもしろいじゃん、まあ酒でも飲んで楽しくやろうぜ、といいますか、非常にエネルギッシュなポジティブな感性を感じるのである。

 

そうかといって例えば先日の「文化祭」で見かけたようなドローリドロリとした蕭白の寒山拾得など、まあ常人の床の間にはおさまらないだろう、例えば私が家に置いていたら、娘たちも妻もいやがることは目に見えている。まあ美術品というのは居間に飾る物もあれば内緒の部屋に置く類の物もあるだろうから別に居間に飾りにくいからアカンということはないだろうが。

 

ドロリといえば岸田劉生は「でろり」とした麗子像を後半描いたが、これはやや観念的で単純にキモチワルイ。失敗といってもいいのでないか。(そういいながら仕入れるかも知れぬが)一方、蕭白のドロリは体の骨身からにじみ出てくる体質+確信犯的なエンターテナー的な資質があらわれているような気がする。キモチワルイ、けど気持ち悪くない。多分そこにはユーモアがある。アイがある、といってもいいかもしれない。(劉生にアイがない、というわけではないけど)

 

また、蕭白はいいとこのおぼっちゃんではなく、絵を売らなければ生活できなかった、というあたりも面白い。村上華岳や伊藤若冲の後半生のような恵まれた立場ではない。「売り絵」を描かないで済む立場ではないのだ。まえのブログで蕭白の生き方は「楽だ」と勝手なことを述べたが生活は楽ではなかったわけだ。

 

だから松竹梅に鶴亀を描いたような明かに「注文絵」を描いているあたりもまた興味深い。カネの苦しさも知らないとニンゲンのひだひだはわからないような気がするし、観念的に理想を追求した絵よりも、注文絵にこそその作家の個性が表れるような気もする。早く死んじゃった相米慎二ももしかしたら彼の理想の映画ができたとしても、それよりも「セーラー服と機関銃」の方が面白いかも知れない。

 

(注:このブログはあまり検証しないで思いつくまま書いています。若干メルマガとはタッチが変わってきていますが、さら、と読み流して下さい。)

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