思文閣大文化祭
本日は思文閣の「大文化祭」に行った。
思文閣というのは私の父が長年勤めたと言いますか、まあ私の意識としてはジブンチという感じの強い会社で私の祖父がはじめた会社でありまして、父の7人の兄弟の大半が加わってなんとか作ってきた(らしい)古書と美術商の店であります。「店」というには今はずいぶん大きくなっていわゆる「美術商」としては最大手といってもいいかもしれない。(日動画廊というものもありますが)
というのは、殆どの「美術商」というのは形式上、株式であれ、有限であれ、個人商店であれ、殆どが「家業」の範囲で営まれているからだ。大店でも、多くの場合、父ちゃん、母ちゃん、お兄ちゃん、という構成が基礎になっているケースが多い。そこに「番頭さん」という他者が入る、というのもひとつのパターンである。(大抵の中小企業はそうかもしれないが)
ところが、思文閣の場合は、かなり大人数であるので、いわゆる「会社」に近いものになっている。一社の規模で言えばいつのまにか最大に近い店のように思う。
けれども私にとっては思文閣、というと「じいちゃんち」というイメージが強かった。父の兄弟がひしめき合って暮らした、祖父の家だ。ここが「思文閣」であった。子供の頃は一年に一度、あるいは数年に一度、集まる「家」であった。
あーハナシが脇道にそれる。で、大文化祭である。思ったより、本当に「大」であった。交通の便がいいとはいえない東京美術倶楽部(芝)に、5/1には大勢のお客さんが来たという。本日2日、私が訪ねた時間帯(午後3時頃)は割合すいていたが、それでも昼頃は人が多かったという。ただ、「大」というのは人数のことではなくて、やはり作品数である。とくに3階の、かなりの名品を集めたコーナー、および入札会場の作品数には圧倒された。まあ兎に角品物を無尽蔵に持っている会社だから当然なのかも知れないが、こうして丁寧に飾るとよくもこれだけあるものだ、と思わせられる。一つの店で、美術クラブの二階と三階を借り切っていっぱいに出来る会社はやはり他にはないのではないかと思わせられる。(あるかもしれないが思いつきません)
あそうだ、この丁稚ログに書いてね、と、とある社員に言われたがそのために書いたわけでは必ずしもない。ひとつには伝統的な日本美術じたいに本当の興味が開かれることを期待していることもある。
今曾我蕭白展を京都国立博物館でやっているが、その蕭白の真筆や、村上華岳、木村武山、竹久夢二などが目の前にぶら下がっていて、しかも「入札」では安く買える「夢」がある。あー宣伝ぽくなったが、本能的に宣伝してしまうな、ま兎に角、ガラスごしでなく、名品とよばれるもの、あるいはコレクター向けの佳作などが、ぺらぺらと目の前に飾られており、箱も自由に見られる。ちゃんと社員に断れば、さわることも、もちろん買うことも出来る。(いや買う人がいないと入場無料なので経費が出ないと思います。買ってあげて下さい。)
日本の美術品を楽しむには本来このように自由度の高い環境で、しかも値段がわかる、ということはいいことだと思うが、美術館となると、こうはいかない。日本画は光や風に弱いので、ついガラスケースの中に守りたくなるためである。ちょっと惜しい。箱ぐらいは各種美術館でも見せてほしい。必ず。(これも脇道)
思文閣現社長の田中大(テレビ出演中)の「何でも鑑定」があるのかと期待していたが5/1のみだったらしい。残念。また、どうせ「祭り」をうたうなら、講演会とか、シンポジウムとか、派手なこともやったらいいのにそういうものがなかったのは残念であったとか書くとGW返上でがんばった社員に恨まれるかも知れないけれど、いち観客としてはそのように思います。
そこまで派手でなくても、例えば、美術館のガイドさんのように、毎定時に、社長を含む社員がグループを引き連れて案内するとか、そういうこともできるかもしれない。
最後に本を4,5冊買う。今日は2割引だそうである。正岡子規と小松茂美先生とくずし字辞典と与謝野晶子の本。正岡子規は面白い奴であり、もっと勉強したい。子規は先人の短歌を糞味噌にけなして、駄目な作品を「月並み」と決めつけた。その過激な姿勢はやはり過激な映画評論で知られる蓮実重彦東大前学長(僕はこの方コワカッタ)からイヤミさと貴族趣味を抜いた感じ、つまり芸術的正義のための純粋なアグレッシブさがあって、チャーミングである。
関係ないが思文閣東京店の女性は皆美人である。オベッカは5%ぐらいしかない。いや弊社の女性も美人だが。これはオベッカが7%ぐらい。このせりふの真偽を確かめたい方は、是非両店で美術品のご購入を。1万円から買えます。多分。
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